千百四十五 スマナサーラ長老の著書を読む(仏教は宗教ではない)
平成三十戊戌
六月十五日(金)
スマナサーラ長老とイケダハヤトさんの対談「仏教は宗教ではない」を読んだ。最初は数ページを読んだところで、読むのを止めた。この本を批判すると、スマナサーラ長老にスマナサーラ(スマナサーラ長老に済まないので、を単に駄洒落にしただけだった。ケネス田中さんの影響でJokeが多くなった)だと思はないのかと云はれさうなので、このまま図書館に返却しようと思った。念のため再度読んでみると、そのほとんどは賛成できることを発見した。ならば意見の違ひを明らかにすることは、仏教と宗教の将来にとり役立つに違ひない。さう思って今回の特集を作成した。
まづ仏教が宗教ではないとすると、釈尊の修業時代の苦行などは宗教なのか。或いはジャイナ教は宗教なのか。この答は、仏教と同じで宗教ではないとすると思ふ。どちらも神に祈る訳ではないからだ。あと「仏教は宗教ではないが、苦行やジャイナ教は宗教だ」と釈尊は云はれなかったからだ。スマナサーラ長老の云ふところの宗教とは、ヒンドゥー教や祈り、祈祷、占ひのことだ。
次に、仏教を修行すると神々が賞賛するとある。だとすれば仏教は宗教だ。あと、在家の信者が僧侶に寄進したり食事の世話をすることは功徳を積むことになる。これもやはり仏教が宗教であることを示す。これに反論するには、神々が賞賛するのと在家の信者が功徳を積むのは、因果の法則だとする。しかし科学とは独立して因果の法則があるのだから、やはり宗教だ。

六月十六日(土)
スマナサーラ長老は次のやうに主張する。
お釈迦様が自分をどう紹介していたかというと、私は「師匠」ですよと言っていたんですね。

その一方で、別の本「出家の覚悟」(スマナサーラ長老と南直哉さんの対談集)では次のやうに発言してゐる。
我々の宗派の仏教では「お釈迦様が人間であった」ことを強調します。「人間である」ことではないのです。人間であったシッダッタ修行者がブッダになったのです。

私の意見を述べれば、釈尊在世中は師匠、釈尊入滅後はブッダだと思ふ。スマナサーラ長老の主張は、かつて自力で修行する説だったが、ゴータミー精舎建立の後は宗教性が強くなったと20年程前に聞いたことがある。「仏教は宗教ではない」は四年前の出版だから、昔に戻ってしまったのかなあ。
私は信者の立場だから、僧侶を食事、衣などで支えるとともに、仏像や仏塔を荘厳にしたり、その前で礼拝する。この姿こそ入滅後の仏教だと考へる。そして私は僧団を外から眺めるだけだが、僧侶の95%も信徒と同じやうに考へてゐると思ふ。
法然の死後に弟子たちが座禅を始めたら変だ。道元の死後に弟子たちが念仏を唱へたらこれも変だ。同じやうに釈尊在世時と同じことを今でも続けるのが上座部仏教だし、釈尊そのものを崇めたり釈尊に仮託した経典を信じると云ふ瞑想を行ふのが大乗仏教だ。
在世時を続けるか、入滅後のブッダを優先させるか。ただしそこには、バラモン教への反発から苦行を優先させた在世時の時代背景と、拝むことが宗教といふその後の時代背景の相違があり、これが別れた一番の原因だと思ふ。

六月二十三日(土)
スマナサーラ長老の
日本人は宗教を煙たがっているとかあれこれ言いますけど、日本ほど宗教に凝り固まっている国はあるのかと思いますね。日本では何でも宗教なんです。

このあと高校野球、子供たちのお守りの話をやりとりし、イケダさんは
何でも宗教って見方は面白いですね。会社まで宗教にしてしまっている人とかも多くいらっしゃると思うんですよ。

確かに、さういふ会社があることは事実だ。江戸時代の太平の世は、従順な人の比率を多くした。江戸時代は従順な人のほうが有利だったから、何世代か過ぎるうちに従順な人ばかりになる。それが終身雇用を生み、終身雇用が会社の宗教化をもたらす。
次に感じたことは、日本では戒や修行を伴ふ宗教が、少なくとも明治維新以降は無い。無いから世の中の人間関係がすべて弱い宗教になってしまふのではないだらうか。明治維新以降と述べたのは、江戸時代には六斎日など特定の日の戒があった。

イケダさんが娘に「なぜ人を殺してはいけないの?」と聞かれたらどうしよう、仏教ではどう教へてゐるか、と述べスマナサーラ長老は
仏教では「を殺してはいけない」ではなく「生命を殺してはいけない」というタイトルなんです。

普通の人で生命を殺さない人はゐない(例へば蚊を殺す)から、仏教上は人を殺してはいけない理由を説明できない。ここは文化で説明しなくてはいけない。ニホンザルが群れを作るのと同じで、人類は文化を持つ。文化に人を殺してはいけないことを入れることが人類の知恵なのだ。
宗教は文化の下部にあるとするのはこれが理由だし、唯物論とは宗教を否定することではなく文化を否定することだとするのもこれが理由だ。だから文化を破壊して新しい文化を造らうとした毛沢東は、大変な犯罪を犯した。毛沢東の真似をしたポルポトも大変な犯罪を犯した。古くはレーニンやスターリンも、唯物論を取り違へて、他党の弾圧や、党内の粛清を犯してしまった。

六月二十三日(土)その二
スマナサーラ長老は
「涅槃とはどういうものか」と聞かれても言葉では答えられないんです。「涅槃には何がないのか」と聞かれれば答えられます。「生もなく、死もなく、怒りもなく、欲もない。何もないのでもない」と。でも、「何かあるともいえないんだよ」と(中略)、このように話すことは禁止です。

これは同感だ。私が「涅槃を目指すのも瞑想法」とときどき云ふ理由は二つあり、一つは言葉で答へられないから、涅槃を目指す瞑想法と云ふしかないし、二番目に今の世の中は涅槃を目指すと云っても先進国(地球を滅ぼす行為が先に進む国)ではあまり受け入れられないから、現代人に合はせた。

ここからパーリ語が出て来る。アルファベットの後の「-」はスマナサーラ長老の書籍で文字の上にある。は
瞑想という言葉はパーリ語で、「パーワナー bha-vana-」というんですね。瞑想と訳すのは間違いで(中略)「インプルーブメント improvement」(改善・改良)、「プログレス progress」(進歩・発展)という意味です。

私はパーリ語をまったく知らないから、これはためになった。長老は続けて
イケダさんは瞑想向きじゃないと思いますけど、頭がいいですからね。

仏教は人間だけではなくすべての生命を救ふ。私は釈迦涅槃図が好きで、その理由は動物たちも悲しんでゐる。イケダさんが瞑想に向かないとすると、どうやって救ふのか。僧団を支へて功徳を積み、来世は瞑想に向む人に生まれる方法はあるのだが。
第一章82頁のうち、私がスマナサーラ長老と異なる意見を持つのは、ごく僅かだった。スマナサーラ長老には今後も上座部仏教のためご活躍をお願ひして、今回の特集を終りにしたい。(完)

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