千百四十五 スマナサーラ長老の著書を読む(釈迦の瞑想法)
平成三十戊戌
六月二日(土)2.意のままに生きられる ヴィパッサナー瞑想法
「シリーズ自分づくり釈迦の瞑想法」と云ふ四冊のシリーズ本がある。どの巻からも読めるとあるので、図書館で貸出中ではない2.と4.を借りた。2.は最初に歩く瞑想として
歩くときも何も判断しない。ただ歩くことに集中します。(中略)「歩きたい」、「立ちます」、「左足」、「右足」と頭の中で言葉で言うのです。「左足」と言ったら左足に意識を持っていって、(中略)「左足、上げます、運びます、降ろします」と言って左足を降ろすのです。

曹洞宗の経行(きんひん)と同じだが、曹洞宗が座禅で痛くなった足を整へるのが目的なのに対して、上座部仏教では経行自体が瞑想だ。
歩く瞑想のときには考えたり、何も判断しないで下さい。(中略)よけいなことを考えないようにあたまをとことん忙しくしてしまうのです。

自宅から駅まで歩くときもできるさうだ。次にスマナサーラ長老は、家事、雑用なども
「掃除機をかけます」「掃除機をかけます」

と頭で思ふことを第二の瞑想法とし、三番目に座って行ふ瞑想について
座禅を組まなくてもいいのです。(中略)「座ります」と頭の中できちんと言葉で言ってから座ります。(中略)「目を閉じまーす」(中略)「吸いまーす」とゆっくり息を吸う。(中略)息を吸うときは身体が膨らむ。(中略)「膨らみ膨らみ」「縮み縮み」

音が聞こえたり、足が痛くなったら
「音、音、音・・・ ・・・」とゆっくり心を静めてから、「戻りまーす、膨らみ膨らみ、縮み縮み」(中略)「痛み、痛み、痛み、・・・ ・・・」と痛みを客観的にとらえていると痛みが気にならなくなります。(中略)「戻りまーす、膨らみ膨らみ、縮み、縮み」(中略)嫉妬が生まれたら、「嫉妬、嫉妬、嫉妬」

終了するときは
「瞑想を終ります。」ときちんと頭の中で言います。その後で、「吸いまーす、吐きまーす、終わりまーす、吸いまーす、吐きまーす、終わりまーす」と言葉でゆっくりと繰り返します。それが終わったら、「目を開けまーす、手を崩しまーす、足を崩しまーす、膝をつきまーす、立ちまーす」と言って立つ。そういうふうにきちんと終了しないと危険です。

以上「2.意のままに生きられる ヴィパッサナー瞑想法」は100%賛成で、有益な書籍だった。

六月三日(日)4.ついに悟りをひらく 七覚支瞑想法
最初に「4.ついに悟りをひらく 七覚支瞑想」を読んだときに、この本は有害だとさへ思った。例へば
瞑想を楽しいもの、面白いものと考えて熱中している人は案外多くいるのですね。(中略)個人の好き嫌いで言うならば、私はそういう人々はすごくいやなのです。(中略)私は表向きは一応賛成の態度をとっているのですが、つい、(中略)
「はい、瞑想やりますか。何で瞑想なんかやるのですか。そんなものやる必要なんてないではないですか」
なんて言うと、私は、もう異端の問題児、問題の坊さんというレッテルを張られてしまったりするのです。

しかし四回目くらいに読んだとき
単にヴィパッサナー瞑想する人々には何の結果もないのかと言っても、安心してください。(中略)瞑想すればするだけ、その人の心は成長して立派な性格ができ上がっていきますし(以下略)

ヴィパッサナー瞑想にこだはる部分は賛成ではないが、瞑想に効果のあることは認めておられる。ここは在家が社会で生きるための修行と、出家が解脱を目指すための違ひと云ふことで、話を先に進めたい。
この本で一番注目すべきは、七覚支の一番目から二番目に行けないときは
まずいちばんいいのは、仏教の話を聞くことなんです。(中略)強引にでも仏法僧を信じて、頑張らなくてはいけない。そういう人にとっては、残念ですけど、やっぱり仏教は宗教になってしまうのです。

私が思ふに、仏法僧は基本だから信じなくてはいけない。信じなくても瞑想の技術が優れれば解脱できると云ふのは、自力修行教であって仏教ではない。しかしこの本が出版されたのは平成九年で、問ひ合わせ先が「日本テーラワーダ協会」、住所は豊島区目白。まだゴータミー精舎が建築される前で、建築されてからスマナサーラ長老は宗教性を強めるやうになったさうなので、寺院のない時代の話と云ふことで済ませたい。
ちなみにスマナサーラ長老のこのときの宗教性とは
これまでのように、ただ妄想、妄想と言わないで、これは欲に関する妄想である、これは瞋(いか)りに関する妄想である、これは無痴に関する妄想であるというように、「貪瞋痴」に分けて妄想を分析してみる。

と云ふもので、私の考へる宗教性とは異なる。私は、仏足(後に仏像)を拝み、お経を唱へ、僧侶を支へる(僧侶の立場だと僧団に従ふ)ことが仏法僧で、仏法僧を信じることでご利益がある(僧侶の立場だと涅槃に近付く)ことが、宗教性だと思ふ。
涅槃とは、多くの生物の犠牲の上で生活する人類は涅槃することが地球に取り最善だし、もし化石燃料の消費を停止すれば人間の生活は大変だから涅槃を目指すことは正しいことだ。その一方で涅槃を目指すことも、実は修行法なのではないか。他の宗教との統一原理としてすべての宗教は瞑想法と主張する場合は、上座部仏教もここまで譲歩する必要があるし、判らないことは無記とする釈尊の教へに沿ったものだ。

六月十五日(金)1.運命がどんどん好転する 慈悲喜捨の瞑想法
「1.運命がどんどん好転する 慈悲喜捨の瞑想法」で重要なところは、慈(メッター、友情)、悲(カルナー、助けてあげること)、喜(ムディター、喜ぶこと)、捨(ウペッカー、平安な心)についてだ。最初の三つは心に波がある。
最初は自分への慈悲喜捨の瞑想、二番目は親しい人々への慈悲喜捨の瞑想、最後に生きとし生けるものへの慈悲喜捨の瞑想。なるほどこれはかつてタイで商売をしたあと出家した「おもろい坊主」こと藤川チンナワンソ比丘に教はった。なつかしい話である。

六月十五日(金)その二3.自分につよくなる サティ瞑想法
「3.自分につよくなる サティ瞑想法」は章や節の題を幾つか抜粋すると概要が判る。それはヴィパッサナーは精神統一が目的ではない、精神統一では心の安らぎは得られない、思ったことは必ず相手に伝わる波動の法則、サティが上手くできると不安が消える、歩く瞑想・立ってやる瞑想・座ってやる(座禅)瞑想、寝てする瞑想。
これも瞑想の指導会で藤川チンナワンソ比丘が、寝る瞑想もあるが寝てしまふといけないのでやらないことにします、とこれだけ話さなかった。藤川さんはスマナサーラ長老の本を参考に瞑想会指導をされてゐたと聞いたことを思ひ出した。
あと一つ、スマナサーラ長老は戒定慧のうち、サマタ瞑想を定、ヴィパッサナー瞑想を慧とされる。私自身はサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想を併せて定。瞑想中、瞑想以外を問はず悟ることを慧とする。私は信徒の立場だからこれでよいとするが、僧侶の場合はどうなのかは私には判らない。(完)

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