千百四(その二) 「西郷どん」を批判的に観ると
平成三十戊戌
三月二十日(火)
前回は「西郷どん」を好意的に書いたので、今回は批判的に見たい。これは先週の放送が悪かったからではなく、前々から書かうと思ってきた。まづ西郷吉之助は若いときは扱ひ難い人間だったのだらう。だから島津斉彬をして自分しか扱ふことができないと云はしめた。
ところが「西郷どん」は人のよいだけが取り柄だ。これでは主人公が大根役者に見えてしまふ。鈴木亮平が大根役者だと言ってゐるのではない。原作か脚本が悪いから大根役者に見えてしまふ。

三月二十一日(水)
先週の放送は、話の流れが変だった。斉彬の嫡男が毒殺され、本人も体の具合が悪くなった。西郷が犯人を詮索し始めたところ、斉彬が「そんな小事より自分にはすべきことがある」と怒り西郷を蹴飛ばす場面だ。毒殺されたら尚のことすべきことができなくなる。これでは支離滅裂だ。
それより西郷を蹴飛ばすことは絶対にあり得ない。そんなことをすれば西郷が離反する。日本の近代史で私にとり不可解なことが二つある。勝海舟はなぜ幕臣なのに討幕を促すことを坂本龍馬に言ったのか。石原莞爾はなぜ東條英機に協力して終戦を停戦に持ち込まなかったのか。
昨年その理由が判った。あまりに理不尽な扱ひをされ続けると、頭では分っても心が冷めてしまふ。勝海舟は重職に就いたり解任されたりを続けられて心が冷めてしまった。石原莞爾は東條英機から弾圧を繰り返されて心が冷めてしまった。誰でもうつ病になるのと同じで、誰でも心が冷えることもある。
勿論、一旦は冷めても恢復が可能だ。だから勝海舟は江戸城明け渡しで活躍したし、石原は戦後に農村から新しい祖国恢復を目指した。
西郷にも云へる。蹴とばされたら誰だって心が冷える。斉彬は西郷の難しい性格を知ってゐるから尚のこと蹴飛ばす筈がない。

斉彬役の渡辺謙を熱演と称する意見が多かった。確かにあの場面は熱演で、あんな辻褄の合はない筋書きを問題なく演じられるのだから、渡辺謙は名優中の名優である。
熱演と云へば「花燃ゆ」で、吉田松陰の妹が椋梨藤太に嘆願する場面を熱演と称する人がゐた。たぶんNHKの関係者で舞台近くで見たのだらう。しかしあれは熱演ではない。時代性を考へれば長州の最高実力者に向かってあんな金切り声を出したら、穏便に済まさうと思ってゐても死罪にしろ、と考へを変へるだらう。
あのときは筋書きが井上真央を大根女役者にしてしまった。本人ではない。悪いのは筋書きだ。あと、今回の渡辺謙はテレビを観た評論家が熱演だと言った。「花燃ゆ」はNHK関係者が近くで見て得意になって熱演だと言った。その不注意が井上真央を悪者にしてしまった。
あんな出来の悪い筋書きを難なく演じる渡辺謙の偉大さが光る一番だった。

三月二十三日(金)
前回の劇伴でカントリーミュージックみたいな曲を流したが、あれは場と調和しない。旋律は心地よい。しかし大河ドラマでああ云ふものを流してはいけない。これまで劇伴がよかったのは、主題曲のうちの美しい旋律の部分を用ゐたからだ。毎回同じものを使って構はない。主題曲だって毎回同じだ。
主題曲で歌が気味悪い理由は音楽の伝統に従はないからだ。(1)歌は歌詞を付けるべきだし、付けないときは心地よい発音にする。(2)発声は島唄、民謡、西洋音楽などのどれかによるべきで混合はいけない。
二つの伝統に従はないから気味の悪いものになってしまった。(完)

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