千八十(その二) 西部さんの死は「天才の自殺」としなくてはいけない(西部ゼミナール最終回)
平成三十戊戌
一月二十七日(土)
本日の西部ゼミナールは、次の話があった。
30年前、インテリは教養番組を除き出演すべきではない、と云ふ雰囲気だった。朝まで生テレビ出演を1年間断ったがプロデューサが熱心なので出演した。
原発反対と、原発絶対安全のどちらも正しくない。当時は交通事故で年に1万人死んだ。今はそれより少ないが24時間以内に死亡しない場合と不具者含めれば1万人くらい。技術文明は大変な被害を出す。
原発反対の女性が、交通事故は避けられるが原発は避けられない、と発言したので、毎年1万人死ぬのに自分のお腹の中の子は心配しても、交通事故にあった人はどうでもよいのか。技術文明を褒めて原発反対はエゴ。
翌日テレビ局に電話が殺到。あの人は誰。毎回出演するのなら見る。
slack たるみ。
テレビはTVまたはテレヴィ。
テレビは沈黙が怖い。ペラペラ考へないで話すから当たり障りのない言葉。
ヨーロッパの映画は、アメリカ批判が一行入る。テレビ、新聞、雑誌も。アメリカの発明したものだが猿真似にはならないと云ふ意思。
人間は一人で生まれ、一人で死ぬ。1回の人生だからいいかげんに過ごす人と、納得できる人生を生きる人と。
後者は何を目標とするか。その点、宗教は目標がはっきりしてゐる。一切の宗教は尊いが、信じたことは1秒たりとも無い。
自殺することを決心した上での話がずいぶんあった。放送が今回で終了するとの話もあった。
一月二十八日(日)
私と西部さんで、思想の一致率は9割だ。今回の放送で西部さんの不一致部分がかなり解消された。番組の途中でさう思った。まづ原発批判だけでは駄目で技術文明を批判しなくてはならない。次にアメリカの猿真似と呼んだ。
しかし番組の最後に、大逆転で一致率が急落したかに見えた。西部さんが「宗教を信じたことは1秒たりとも無い」と述べた部分だ。しかし宗教は信じるものではない。習慣の一つとして宗教がある。葬式、お墓参り、七五三、新年の松飾りやおせち料理。どれも習慣だ。
西部さんは「1回の人生だからいいかげんに過ごす人と、納得できる人生を生きる人と。」と述べたが、人々に後者を選択させるにはどうしたらよいかを考へるとき、宗教がその役割を果たす。
自殺は悪いことだ。しかし天才の自殺なら許せるのかも知れない。川端康成が自殺したのは46年前だが、当時の雰囲気として天才だから仕方がない、芥川龍之介と同じだ、とだれもが感じた。
だから西部さんも天才の自殺にしなくてはいけない。勿論そんなことを云ふまでもなく、西部さんは天才だった。但し西部さんは理論の天才ではなく、実行力の天才だ。大学教授を辞任し、雑誌を創刊し、テレビに出演し、塾を開催した。
雑誌「発言者」は廃刊に追ひ込まれたものの、「表現者」として復活し、今回藤井さんを編集長に「表現者criterion」として引き継がれた。
私は西部さんの話を直接聴いたことがない。しかし会ったことはあるかも知れない。埼玉県浦和に浜田卓二郎と云ふ自民党衆議院議員がゐた。小選挙区制が導入されたとき同じ選挙区に自民党議員がゐたため、参議院に回り公明党の推薦も受けた。このころ浜田さんと西部さんが対談する雑誌が浦和の書店に並んだ。たまたま浜田さんの家の横を歩くと西部さんにそっくりの人が自動車に乗るところだった。あれは西部さんだと思ふ。
浜田さんはこののち東京に引っ越した。私の母が浜田邸向かひの日本茶販売店(今は閉店)で買ひ物つひでに話を聴くと、挨拶なしに引っ越したさうだ。議員時代のなごりで当落に関係ない行為はやらないらしい。(完)
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