千六十(その四) 「東京都電6000形」「鶴見線貨物回顧」
平成三十戊戌
一月二十八日(日)「東京都電6000形」
ネコパブリッシングのRMライブラリには有益なことが書いてある。と云ふことで八冊ほど借りて、そのうち気に入った二冊を紹介したい。一冊目は「東京都電6000形」で、印象に残ったのは
木造車の鋼体化により生まれた4000形117輌も実質的には6000形と同一形式であり(6000形の見込生産車と推定できる車が含まれている)、同時に出現した3000形も、種車の関係から寸法は少し小さいが、同じスタイルである。
800形、1000形、1500形、5500形、7000形、7500形、8000形と比べると、3000、4000、6000は同じ車体だったが、なるほどさういふ事情だったのだ。私は4000形を見たものの乗りそこなったので、「同一形式であり」と明記してあると少しは安心する。
6000形を持たない車庫は目黒・広尾・早稲田・大塚・荒川の5庫のみとなった。
将来の記録のため補足すると、このうち大塚は上下の線路間隔が狭いところ(橋の部分か)があり、6000形は走行できず3000形を用ゐた。錦糸堀の28系統・36系統も同じ理由で6000形は使用できなかった。私が本格的に都電を調べ始めたのは昭和45年の大久保車庫廃止からなので、それ以前に廃止された路線でも他にもあるかも知れない。
昭和27年度 6242~6290
(前略)台車も新しくD17形となった。
D16までが板バネなのに対して、D17はオイルダンパ付きのコイルバネだった。大塚車庫廃止の直前はD17はかなり横揺れした。オイルダンパのオイルが無くなったのではないかと噂された。
一月二十八日(日)その二「鶴見線貨物回顧」
鶴見線の扇町方面に自転車で向かふと、頭上に鉄橋が見える。工場内の引き込み線だらうと思ってきたが、日本鋼管の川崎工場と扇町工場を結び、後者の高炉から出たものを溶銑貨車(浜川崎駅常備)で輸送した。一貫橋と呼ばれた。二つの工場は昭和19年に統合され川崎製鉄所となった。しかし
昭和40年代に入ると(中略)沖合の人工島、扇島に新工場を建設、構内鉄道は国鉄とは接続しない1676mm(5フィート6インチ)軌間となった。
さらに
1985(昭和60)年頃までには扇島以外、在来各製鉄所の専用鉄道はすべて廃止されている。(完)
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