千六十(その三) 客車の書籍を二冊称賛、一冊批判
平成三十戊戌
一月十二日(金)「客車の迷宮」
客車のジャンパー線はどうなってゐたのだらうか。それを調べると「客車の迷宮」と云ふ一冊の書籍に至った。インターネットは一部の紹介なので原著を読み、その高度な内容に感嘆した。しかし後世のため間違ってゐる恐れのある部分を指摘したい。おそらくJR各社でも判る人は少ないはずだ。

まづ、固定編成なのにナロネ20の予備車の走行距離の関係で組成変更を頻繁に行った記述がある(P185)。組成変更は検修庫の有効長、作業量の関係ではないのか。交番検査の日付けは固定編成でも各車両ばらばらで、交番検査の日付けが揃ってゐたことは、私の記憶では一回くらいしかない。

20系の電力線は電源車に近いほうが太く離れると細くなると書いてある(P181)。本当にさうなのか。組成したときに新たに連結した部分の線を付ける話ならあり得る。或いは二種類か三種類を用意した可能性はある。

客車が民営化で消えたのは事実だか「民営化で変わった輸送システム」と云ふ題(P214)は正しくないかも知れない。本文では民営化の前に、10両以上を連結した地方幹線の普通列車が、2~3両の電車に切り替はるとありこれが正解だが、民営化を前に地方切り捨て批判に応へたのではなく、分割が目前に迫ってやっと役所体質を脱したのが正しいのではないか。
これは経営側だけでなく労組も同じだが、国鉄時代は従来の方式を踏襲する体質に労使とも浸かってしまった。そこに鉄道の美もあったが時代の変化に対応できなかった。

増補してほしいものに12系の車軸発電機がある。12系は冷暖房用にディーゼル発電機を装備してゐたが、車軸発電機とディーゼル発電機の関係、12系は従来客車と併結、14系と混結できるがそれとの関係などに触れると、「客車の迷宮」は客車辞典とも云へる内容になる。

一月十三日(土)「現金輸送車物語」
RM LIBRARYの「現金輸送車物語」も良質な書籍だ。マニ34、マニ30と云ふ荷物車は現金輸送車で、秘密扱ひだった。
まづ国鉄が民営化されたあとのJR貨物によるコンテナ列車最後尾に連結したマニ30の写真(P4)は興味深い。最後尾なのは運転上の制約かそれとも組成上の都合か(従来客車は機関車の次位、最後尾の車掌車の前のどちらにも連結できるが、12系など新系列は車掌車の前しか連結しなかったため)。尾灯が装備されてあるのに最後尾の標識板。ブレーキは貨車に合はせたのか(客車は貨車よりブレーキ性能がよいから、混合列車の場合、確か貨車の両数が多いときは客車のブレーキ弁を操作して貨車と同じにした。或いは客車の両数が多い場合だったか。この場合なら操作は不要だ)。

隅田川駅の構内図(P7)は懐かしい。1980年代と書かれるが、私が年末の小荷物のアルバイトをした昭和52年(1976)頃は、鉄道郵便局分局や日本運輸倉庫への道路を横断する引き込み線はなかった。
私が勤務したのは小荷物の発送サブセンターで、年末だけ建てる屋根だけの建物だった。その位置は道路を横断した日石隅田川油槽所と書かれた位置で、その施設は無かったから昭和45年(1970)頃に廃止になったのだらう。
六門はなつかしい。小荷物取扱所は屋内で旅客駅のホームみたいだった。その北側がコンテナセンター、更に北側に隅田川客貨車区、その北側にコンテナ置き場、更に北側に留置線があり、確かその北に客貨車区のコンテナを検査する場所だった。
小荷物取扱所の北からEF58がSGの蒸気を噴き上げながら荷物列車を連結して発車する光景が今でも目に浮かぶ。

昭和24年に完成したマニ24の写真(P21)に、この時期は中央に配置区略称を標記するほか、車体の1・4位に配置区名を記載した。と解説がある。この解説のうち前半の配置区略称は誤りで、正しくは常備駅名だ。
気動車や電車が出現すると、(時期1)客貨車区と機関区を統合した運転区や運転所が現れた。後に(時期2)最初から運転所として建設されるものもあり、この場合も従来と同じやうに検修庫とその周辺が運転区所、それ以外は駅だった(例へば向日町は検修庫の周辺が向日町運転所、行内の多くは向日町操車場)。ここまでは常備駅で問題は無かった。
その後(時期3)、仙台運転所、新潟運転所(本所)、青森運転所のやうに構内全体が運転所のものが現れた。この時点でも、国鉄の規則では客車は常備駅名のままだった。そして後に(時期4)規則が改正され常備駅または配置区となった。
写真は(時期1)より更に前なので常備駅と云はなくてはいけない。もう一つ過ちがある。当時の車両は略号と検車区名の両方を記載したやうに書いてあるが、「品川檢車區」の記載はマニ24だからではないのか。マニ24は秘密の車両だから例へば小山駅に留置してゐるときに期限が近付いたからといって勝手に小山客貨車区の検修線に回送して交番検査をしてはいけない。そのため検車区名を記載したと思はれる。車電区は検査しても構はないのか、或いは検車区からの連絡で車電区が検査したのか不明だが、どちらかの理由により車電区の記載はない。

以上、二冊について細かいことを述べたが、将来これら二冊が辞書的役割を果たすため、はっきりさせないと後世の人が間違へてしまふので、批判的に記載させて頂いた。

一月十三日(土)その二批判すべき一冊
以上の二冊だけを読んだのたったら、二冊を手放しで絶賛し続けただらう。しかし三冊目を読んだところ、これがとんでもない出来だ。私は内容が拙劣だからと云って批判したりはしない。前に宮澤賢治を取り上げた学者を批判したことがあったが、あの本は内容が低質なだけではない。下品でしかも悪意を持って宮澤賢治を批判するので、亡くなって反論ができない本人に代はって批判した。
この本を批判する理由は特権意識だ。明治生まれの作家を〇〇先生と呼ぶ。これからして不自然だ。昔の人は夏目漱石、芥川龍之介と呼び捨てにするのが普通だ。先生の押し売りはいけない。
次に、この作家を特権意識の固まりに仕立ててしまった。駅長が挨拶に来ただとか、駅長に席取りを依頼しただとか不愉快な話ばかりだ。席取りのどこがいけないかと云へば、正直に並んだ人がその分、座れなくなる。
食堂車が混むのに、しかも係員が席を変ってくれるやう丁寧にお願ひするのに馬耳東風と云ふ話もある。この本は最初から最後まで不愉快な内容だった。こんな駄本は珍しい。(完)

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