千六十(その二) 東横線の話題
平成二十九丁酉年
十二月十日(日)元住吉の緩行線に
一ヶ月くらい前だらうか、東横線下りの特急だったか急行だったか乗ったときに「元住吉駅のポイント故障のため揺れますので手すりや吊革に御掴まりください」と放送があり、ホームに接した緩行線を走行した。そんな珍しいこともあるのかと驚いた。
今から十年くらい前だらうか、確か自由が丘で抜くはずの急行が遅れたため、日吉(目黒線が武蔵小杉止まりだった時代は、元住吉ではなく日吉で追ひ抜いた)で抜いたことがあった。その柔軟な運転方法に感嘆したものだった。
東横線が日比谷線に乗り入れた時代に、日比谷線の車両が当時は行き止まり式だった渋谷駅で折り返したことがあった。これは驚くには値しない。日比谷線が不通になったとき、日比谷線に乗り入れる列車は渋谷まで行かないと後がつかへる。これはダイヤを組むとき想定された事項だ。
と云ふことで、今回は東横線を特集することにした。
十二月十二日(火)青く下部が内側に曲がった電車
一番古い東横線の記憶は、小学校低学年のとき母に連れられて元住吉の叔母の家に行ったことだ。最初は都電で渋谷まで行ったか、或いは上野広小路から地下鉄銀座線で渋谷まで行ったが、後に仲御徒町から日比谷線で行くやうになった。日比谷線が東横線に乗り入れるやうになったのは昭和39年(1964)だから、この前後の話だ。
この当時は青く下部が内側に曲がった電車と、銀色の電車が走ってゐた。青い電車はドアも内側に曲がるので、車内から見ると特異だった。
十二月十六日(土)田園調布駅
昭和59年と60年は、勤務地が富士通川崎工場小杉分室だったので武蔵小杉まで通勤した。当時の東横線の思ひ出は、田園調布駅は目蒲線(現、目黒線)と東横線のそれぞれの上下合はせて四線が並行して地上にあった。
東横線下りから見て一番左の目蒲線下りから一番右の東横線上りまで、一線づつ片渡り線があった。そして東横線上りから更に右に二線くらいの小ホームがあった。おそらく荷物積卸用だと思ふが、或いは貨物積卸用かも知れない。
今から十年くらい前だらうか、図書館かインターネットで調べたところ、おそらく荷物用ではないかと結論づけたことを思ひ出した。
十二月十八日(月)菊名駅
菊名駅の改札が昨日から大きく変更になった。今までJRに乗る人は「東急 菊名駅」と書かれた階段を上がり、東急の券売機と有人改札室と自動改札を左に見ながら前方の階段を降りて駅の外に出ると、左にJRの駅入口があった。つまりこの仕組みを知らない人は誰かに訊かない限り永久にJRに乗ることはできなかった。なぜなら階段には「東急 菊名駅」と書かれてゐるのだから。
こんなことになった理由は、SUICA導入で共通だった改札を無理やり二つに分けた。それまで東急が駅全体を管理し、改札を入ると中で東急とJRに分かれた。しかしこれだとSUICAは自動計算だから経由が判らない。そこで東急からJRのホームまでは乗り換へ通路としてそのまま残り、しかし通路の中間に自動改札と有人改札を設けた。自動改札が横にたくさん並ぶから乗り換え客は1回タッチするだけでそれほどの手間ではない。
一方、菊名駅からJRに乗車する人のためにJRの駅を裏側階段の左に独立させた。早朝は駅員がゐないから、青春18切符など自動改札から入れない切符は不便だ。昼間もみどりの窓口に対応中は改札が不在になり清算する人は長時間待たされる。実に不便な駅だった。
菊名駅は東急とJRとの乗り換え客がほとんどだ。JRの改札口なんかはグリコのおまけみたいなもので、JR東日本にとってどうでもよかったのだらう。
そんな状態が驚いたことに20年間も続いた。それがこのたび数か月間の工事を経て昨日から仕組みが変はった。JRの券売機と改札口が3階に移動した。その代はり連絡通路が廃止された。JRに乗る人は便利になったが、東急とJRの乗り換え客は、一旦改札を出てエスカレータか階段で2階と3階の間を移動し、そして改札から入る。不便になった。
SUICA導入のときに鉄道会社ごとに改札を分けたからかういふことになった。かつては菊名駅に限らず、松戸(新京成)、川越(東武)、西船橋(東京メトロ)、拝島(西武)、八丁畷(京急)のやうに首都圏でも共通改札の駅が多かった。SUICA導入でキセル乗車は無くなった。あとは統計で経路ごとに分配すればよい。例へば西船橋からJR経由が何%、東京メトロ経由が何%と分ける。
統計は或る時刻の列車乗車人数から推定できる。乗車人数は空気バネ台車の空気圧、或いは写真判定で簡単に判る。改札を分ける工事、新たに駅員を配置、自動改札の費用と保守費、その場所を賃貸に出せば得られたであらう賃料。これら考へれば、統計の誤差なんて僅かなものだ。そもそも乗客の不便は金額には換算できない。
十二月十九日(火)武蔵小杉駅
かつて武蔵小杉駅は国鉄(当時)と東急による二人三脚の改札だった。国鉄と東急の連絡通路には有人の改札があった。その一方で、国鉄側の出入口でも東急の切符を販売し改札する。つまり国鉄と東急は出入口が遠いので、乗降客の利便を考へて国鉄の出入口経由で東急に乗ることができた。
今でも新宿駅の中央東口に同じ制度がある。小田急と京王に乗るにはJR管理の券売機で購入し、JRの改札を入り、中の連絡改札で再度、切符なりSUICAをてっちする。
武蔵小杉駅は30年程前だらうか。この制度が廃止になり、連絡通路は二階部分を斜めに走る橋だったが解体された。今回、菊名駅が武蔵小杉と同じ形態になったと云へる。
十二月二十三日(土)昔の話題三つ
昔は元住吉始発の急行が早朝にあった。桜木町(当時)方面から普通列車が来て元住吉に停車し、乗り換へ客が途切れたあとで、まづ急行が発車した。元住吉は急行通過駅だから、これは珍しい列車だった。
下の子が小さい時に高島町駅(今は廃止)でトイレに行きたいと云ふので連れて行った。駅のトイレは汚いことが多いが、ここの駅はきれいだった。と云ふより利用者がほとんどゐないから汚れないと言ったほうが適切だ。別にピカピカに磨かれてきれいな訳ではないから。駅のトイレが汚いのは利用者が多いからだ。大都市の鉄道会社がいかに儲けてゐるかがよく判る。
JRの湘南新宿ラインに対抗して、東横線に特急が新設された。最初は中目黒に止まらなかった。だから渋谷行きの後方車両はがらがらだった。その理由は当時の渋谷駅は、行き止まり式ホームの前方に大きな改札があり、中ほどに小さな下り階段があった。ラッシュ時に下り階段は混むので、私は高法の車両から降りても階段を尻目に前面の大改札まで歩くくらいだった。その後、特急は中目黒に止まるやうになり、通勤時には日吉にも止まるやうになった。
十二月二十四日(日)元住吉駅の出札掛
先日お会ひした人が、偶然にも昔、元住吉駅の出札掛だった。高校卒で就職したものの一年後の19歳で退職した。その間に化膿して入院したさうだ。痰壺の掃除をするから化膿したと述懐しておられた。
昔は大企業に就職することは、別にうれしくも何でもなかった。昭和60年のプラザ合意までは、大企業だから高収入と云ふことはなかったし、中小企業のほうが給料が高い例もあった。
昔は多くの乗客が親しみを感じた鉄道員が今は別の感情で見られるのも、鉄道は競争のない安易な産業と思はれたためだらう。(完)
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