千五十 ハノイ訪問記
平成二十九丁酉年
十一月十一日(土)
昨日からハノイへ二泊の旅に出た。ハノイ空港からホテルまで送迎付きのツアーを手配した。空港到着が遅いから自分でホテルに行くより送迎付きのほうが安心だ。空港から市内まで鉄道が無いことも選択した理由だ。
私はこれまで何十回も旅行したから、海外旅行には慣れてゐる。トラブルもその間にたくさんあった。例へば三十年前にイギリスに旅行したところ、クリスマス前後はタクシーを含むすべての交通機関が止まって、その場合にどうやってホテルからヒースロー空港まで行ったか。或いはアメリカでは預けた荷物が出て来なかったこともある。同じくアメリカで飛行機の到着が大幅に遅れて迎への取引会社のアメリカ人と会へず、と言って公衆電話の掛け方が判らずそもそも両替してゐないし空港内で両替してもコインがないし、もちろん何か買へばよいが十分なコインのお釣りがくるとは限らないから公衆電話用のカードを買ひ、使ひ方が判らないでいると親切に教へてくれる人がゐて、通話が終ったあと残量は少ないからその人が最初に考へた通りその人にあげたこともある。ドイツ出張中に社長がお姉さんといっしょに来独し、うっかり出国用ターミナル(出向と入国はターミナルが離れてゐた)に行ってしまひ、遅刻したが無事に会へて社長のお姉さんが日本航空に以前勤めてゐたので日本航空の話をたくさんしてとりつくろったりなど、過去に海外でトラブルにあったことはたくさんあった。
その私が、今回は送迎が来なかった場合の対策も調べたほうがいいと直感し、時刻が遅いときは旅行会社ではなく担当者の携帯電話に掛けるべきことまで調べた。
そしてハノイの空港に到着すると、私の予想が当たった。何回探しても私の名前を持った人はゐない。携帯電話の番号は判るが、公衆電話のかけ方が判らない。しかしその旅行会社のユニフォームを着た係員がゐたので事情を説明すると、連絡してくれた上に待ち時間に多数ある空港の両替会社のうちごまかされるといけないのであそこの銀行窓口がよいなど、実に新設に教へていただいた。
遅れて到着したガイドさんも親切だったし、申し分なかった。ガイドさんの名誉のため一言述べると、私にも責任がある。私は荷物を預けないから出るのが早い。しかも今回購入した靴に原因があった。普段履きの靴はあっと云ふ間に底が摩耗するから、私は安い合成革靴しか所持せず出勤のときも休日も、同じ靴を履く。
妻が海外旅行に革靴ではみっともないから普段履きの靴を買ふやう云ふので、旅行の前に買った。履いてみると実に速い。歩くと云ふより走るのに近い。これではガイドが間に合はないのも当然だ。

十一月十三日(月)
(1)路線図
今回は出発前にベトジョーと云ふベトナム在住日本人向けのページで市内バスの路線図を見つけた。これは大いに役立った。路線ごとに色分けしてあるが、印刷すると色によって番号が読み取りにくい。画面を見ながら乗りさうな路線に番号を記入した。行きたい場所も路線図に書き込んだ。
(2)ホーチミン廟周辺
二日目は、41系統に乗り市の中心部で降りた。軍事歴史博物館の前なので現在地を把握するのに便利だった。日本から持ってきたブルーガイド「わがまま歩き ベトナム」を見ると、道路の対岸がレーニン像だ。偶然これを最初に観た。携帯電話(カメラとして使ふ)をホテルに忘れたことに気付いた。私自身の考へでは、はレーニンがスターリンを生んだとするものだ。しかし帝国主義の世の中にあってフランス軍に勝利し、アメリカも追ひ出したのはレーニンの帝国主義論に寄る。ベトナムの独立に縁が深い。伝統を守るのはよいことだ。
中国大使館、ロシア大使館のブロックを歩き、ホーチミン廟の前に至った。毎年この季節は二か月間、遺体の修復で休館する。入れなかったのは残念だが、旧ソ連の真似で遺体を安置することに私は反対だ。ベトナム人の伝統に従ひ葬るのがよい。さう思ひ直して、広場にベトナム各地から多数の団体がゐる中を後に、列のあるホーチミンの家も横目にクワンタイン祠に向かった。ここには二度と来ないはずだった。しかし後から思ふと並んででも入るべきだった。
(3)クワンタイン祠
クワンタイン祠は道教の寺院で北方からの敵を破った鎮武を祭る。境内の多数の漢字に、日本、朝鮮半島、中国、ベトナムで漢字文化圏、或いは仏教道教儒教文化圏を再興すべきだと思った。
(4)市街北端の大きな湖と鎮国寺
両側が湖の道の左側を歩き、途中に連絡水路で右側の湖から左側に水流があった。鎮国寺の手前で横断歩道を渡った。寺への参道の石製の柵に「諸悪莫作」「衆善奉行」とほってある。これはぜひ撮影すべきで携帯電話を忘れたことを悔やんだ。鎮国寺では十三重くらいの高い塔と、漢字を改良したベトナム文字が印象的だった。

十一月十四日(火)
(5)湖に突き出た半島
鎮国寺を出て、小道が大道にほぼ並行して左に分かれる。すぐ大道に合流するのだらうとこの道を行くと、ずいぶん歩いても合流しない。湖に突き出た半島を一周するはめになった。30分ほど遠回りした。しかし右側は民家や食材の商売をする人たちが続き、右側は見ずに面して児童遊園が続く。左側はお年寄りが多い。しかし若い人や子供も多い。つまりすべての世代が街に出て活気がある。お年寄りはのんびり縁台将棋風の人が多かった。
(6)ホアンキエム湖
半島一周の後は大道に合流し、ここからバスで市の中心部に戻るはずだったが、15分ほどがんばって歩きホテルに戻った。携帯電話を持ち、バス31系統に乗った。車内で車掌が席を譲ってほしいと言ったのだらう。誰かがすぐ席を譲り、車掌が私に席を指さすので座った。私が60歳過ぎだからか、或いは観光客が車内で立つと危ないためか。車掌が云ふとすぐ席を譲るベトナム人の若者には感心だ。先ほど乗ったバスでは立席だったが、別に何もなく私は地元の人たちに溶け込んだつもりだったのだが。車内を見回すと年配者はほとんどゐない。お年寄りの多いのは街なかのやうだ。
ホアンキエム湖の近くで下車し湖の周りを一周した。先ほどの二つの湖は市街の北端にある。ホアンキエム湖は市の中心にある。周囲で街中コンサートの準備や展示があった。白人の女性が湖の周囲をジョギングしてゐた。完全に周囲と調和してゐた。
(7)玉山祠
2/3周を歩くと湖の中に玉山祠がある。赤い橋を渡り、境内を見てゐると、15人程度の日本人にガイドが日本語で説明するので私もついて行った。下手な日本語だが9割は理解できた。
神社、元寇を撃退したチャンフンダオ、学問の神様、関帝などを祭る。隣の部屋に大砲の玉で凹んだ跡。かつて近くに中華街があった。中越戦争のとき全国から華僑が集まった。このままだと危険なのでベトナム政府が分散させた。

以上の話があった。亀のはく製は脇にある物が並べてある。それについて下品な話で、一団、特に中年の女が大笑ひした。ガイドは若い女性で、一回ならよいのに何回もその語を繰り返すので、母国語ではあの単語は繰り返せないだらうと思った。
(8)旧市街、ドンズアン市場、ロンビエン駅
旧市街はガイドブックに載るので一回は行く価値がある。しかし狭い道路と大量のオートバイでうるさいばかりだ。ドンズアン市場は買ひ物が目的の人にはよいだらう。ロンビエン駅は逆側の階段を上がったので、線路があるだけの停留所だったが、単線の反対側に駅舎があり、待合所と閉まってゐるが窓口が二つほどある。売店もある。
列車の時刻表にはハノイからサイゴンまでの駅名と列車が6本くらいで、うち2本はハノイの次の駅にも停車して途中止まり。ロンビエン駅が見当たらないが、どうやらロンビエン初の列車が少数あって、ここの駅をハノイと称するみたいだ。地元の日と他とはともかく、白人の観光客までが線路を歩いたり、橋を渡ったりするが、あれは危ない。旅客列車は数本でも、貨物列車が来ないとも限らない。
(9)ロッテセンタービル

ロンビエン駅からハノイ駅に鉄道で行く予定だったが列車が無いので、ロンビエンのバス停から22A系統に乗った。路線図には22しかないので、最近できたやうだ。一方通行の関係か上下がループの先で降りるはずだったが、ここで見間違へた。ループと思ったが上下が別れるだけで先は繋がってゐた。22Aは路線図にないからどこを走ってゐるのか判らない。屋根付きの歩道橋(ハノイでここだけかも知れない)のあるところで下車した。歩道橋を渡ってみた。足元にも1mくらい雨除けがあり、しかし屋根との間は開いてゐる。学生が何人も渡るので学校があるやうだ。英語でAcademyとあるから大学かどうかは判らない。
道路名は把握したが場所が判らない。右側にテレビ局があり旅行ガイドによると少し歩けば日本大使館だ。その近くの日本街に行くことにした。その角にロッテタワーと云ふ周囲を凌駕する高層ビルがある。地下1階はスーパーで、店内で飲食できるコーナーもある。価格は日本より安いが、地元の価格の10倍くらいだらう。駐ハノイの外国人が多いものの、外資系などに勤務するベトナム人もゐることだらう。店に入るのに、鞄やビニール袋は封印された。
1階は香水、化粧品などで日本にもよくある。2階から5階は電器、衣服など日本のデパートと同じ。6階はレストラン街だ。日本料理、韓国料理。中華料理はハングル付きだから韓国系の経営だ。あとベトナム料理。値段は日本より安いが地元の感覚では高額だ。

十一月十九日(日)
(10)日本街
書籍に載った日本街は、大きな道路の両側に5~6店舗があるだけだった。拍子抜けしてロッテセンターの交差点に戻る途中で、一本の道を見つけた。道路の両側に15店ほど日本料理などが並ぶ。入口に掲げられたメニューを見ると、日本より安いが10倍するとべらぼうな高値になる。
バス通りに戻ったが日本大使館は道路の反対側だったので気付かなかった。そのまま歩いて右折しホーチミンの家に向かった。

(11)ホーおじさんの家

一柱寺では伽藍部分は興味深く拝観した。しかし本堂は一柱がコンクリート製だし観光客が階段の上まで三十人くらい並ぶので、そのまま素通りした。私の関心は開館時間中にホーチミンの家にたどり着けるかだった。
地図だとホーチミンの家はホーチミン博物館や一柱寺から行ける。ところが三回行ったのに外に出てしまふ。警備の警察官に聴いてやっとたどり着いた。ホーチミン廟の並び、何と朝に来た時、団体客が並んでゐるところだった。あのとき並んで入ればよかった。
質素な住まひと、これも質素な大統領公館。公館の執務室にはマルクスとレーニンの肖像画が掛けてある。自動車三台が大きく立派なのと西洋館には興ざめだった。勿論警備の必要で車が大型になるのは判る。移動中に米軍機の爆撃があるかも知れない。ここはホーチミンが質素なことを紹介するのではなく、ホーチミンに関係する建物すべてを紹介する場だ。さう思ひ直した。
日本国内では、昭和四十年代に革新勢力に人気があった。「昔陸軍、今総評」と云ふ言葉も実感できたし、大都市には革新知事革新市長が誕生した。日本に革新政権が誕生しなかったのは、既に農地改革を終了した農村部が自民党を支持したためだった。日本で革新勢力が人気だった理由に、ホーチミンの質素な生活がある。
北ベトナムで撃墜された米軍のB51には無数の銃弾跡があり北ベトナム国民総力の努力だと賞賛されもした。
(12)再び鎮国寺

ホーおじさんの家を出たあと、バス路線図を紛失したことに気付いた。これまで私が自在にバスを乗り回せたのは、この路線図のおかげだ。しかし心配は要らない。朝、ここから歩いてホテルまで戻れた。一生に二度と来ることは無いだらうと落胆した鎮国寺を再度訪問し、仏教の神髄を書いた二つの石(写真1)、(写真2を写すことができた(三門)、(下はベトナム文字か)、(多層塔)。
(13)ホテルへ

鎮国寺を出て、今回は大きな道を進んだのでまもなくバス通りに出た。沿線は数十メートルおきに警察官がゐた。アメリカ大統領のトランプさんが空港に向かふさうだ。このままホテルに着くはずが、1Kmほど行き過ぎて戻るはめになった。ホテルはバス通りから分離して再び合流するバス通りとほぼ平行の道から右折した先にある。うっかりバス通りから右折する道を探しながら進んだため、バス通りを行き過ぎてしまった。
昨夜はホテルに到着の後、既に機内で夕食は済ませたので、ビールを買ひに出掛けた。バス通りと並行の道にレストランがあり白人十五人ほどが店内で飲食。隣に酒屋があり店内を見渡すとワイン1瓶が日本円で2000円くらい。ベトナムの物価では高いので店外に出た。
バス通りに小型スーパーがありハノイビールとそれに類似した文字のロング缶を1本づつ購入した。日本円で320円程度。ホテルで飲んだあと、缶を見るとロング缶はチェコ製。ローマ字に点の付け方がベトナム語にそっくりなので、してやられた。きっとハノイビールは安価、チェコ製ビールは高価なのだらう。
今夜は、朝6時半から今までバスに乗る時間を除いてずっと歩き続けたので低血糖になるといけない。旧市内のCiecle Kで購入した夕食をホテルで少し食べたあと、昨夜のスーパーに出掛けた。ハノイビール3本とソーセージ(小型の25gが10本入りでevery dayと書いてあるから子供に1日1本与へるのだらう)で290円程度。二日目はベトナムビールに似せた高価なチェコビールを購入しなかったので、ソーセージを買っても、昨夜より30円安かった。
トランプさんが来るのかと20分ほどバス通りの路傍に立った。バス通りの後方は歩道兼並行道で幅が10mはある。最初は後方に立ったが路傍の警察官が後を振り向いたので、警備がしやすいやうに警察官から横10mほどに並んだ。私以外にもベトナム人が何人か後方にゐたが、服装で私が外国人と判るのだらう。前方と後方の両方を気にすると警備がやりにくいだらうから、横に並んであげだ。
バス通りを行き過ぎて戻った時間や、ホテルに戻った時間を含めれば1時間は過ぎただらう。低血糖のためか少し貧血気味になったので、そのままホテルに戻りビールを飲み夕食をとった。
(14)空港へ

翌朝は6時に迎への車でホテルを出発した。朝食バイキングは6時からなので間に合はない。二日前に往路のガイドさんの尽力でホテルが朝食バスケットを用意してくださった。小さいハムが8枚くらい、小型トマトが10個くらい、ゆで卵が2個、チーズが2個、小型パンが3枚とバターが2包、バナナが1本、ミネラルウォーターが1本。かなり豪華だ。ごみ箱にバスケットが一つ捨ててあったので、なるほど欧米人は大食ひなのだと判った。
全部は食べきれないので、バナナとミネラルウォーター半分は空港で、チーズ1個は日本に帰国後の翌朝食べた。

二日前に空港から市内に向かふときガイドさんが、この辺りは田んぼだが数年後には住宅地になると説明があった。そのとき外は真っ暗だったが、なるほど早朝に社外を眺めると辺りは一面田圃だった。往路の高速道で赤いトーチを潜ったのでガイドさんに質問すると、稲穂に鎌とつるはし。農民と労働者を表すと説明があった。往路では赤いアーチだったが、復路ではなるほど稲穂の絵が描かれてゐるのが見えた。ベトナムはアメリカとの戦争の上で独立を果たしたのだから、労働者と農民の政治は国の伝統だ。これを放棄してはいけない。
その先に電光の橋。これは日本の経済援助で日本のxxxxx(IHIともう一社云ったが、IHIって何だ。石川島播磨かと考へるうち聞き逃した)が建設。かつて川は水量がもっとあったが発電で水量が減ったさうだ。それでも幅の広い川だ。川を渡りバス道路に出たあと、左側の壁はかつての堤防だったと説明してくれた。昨日バス通りを歩いたときも、空港への復路でも右側にかつての堤防が続いた。
復路は早朝なので自転車の練習で30台くらいが二車線分を走行するのを追ひ抜いた。ガイドさんが、高速道路なのに危ないですねえ、と云った。私のほかの同乗者2名が、ここは高速道路なのですか、と驚いた。往路は空港を出てすぐにゲートで停車したので、私は高速だと判ってゐた。ただし一般道から合流してまた分岐して、と云ふのが最初は幾つかあり、空港間際に帰路もゲートがあった。先端部分は無料で出入りできるらしい。
空港に到着した。私以外の二名はビジネスクラスだった。さういへば往路も、私以外の一名はガイドが「明日はxxxxx、明後日はxxxxxxのツアーですね」と話すので、路線バスと歩行の私とはかなり異なった。海外旅行も最初のうちは欧米、中国、台湾、香港へ行く。ベトナムに来るのは相当旅行を重ねた人だ。お金に余裕があるのも当然のことかも知れない。
往路の飛行機は帰国するベトナム人が多かった。荷物を手押し車に一杯積んで、カウンターで預ける人が多数ゐた。(完)

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