千二十(その二) 戸部さんの名著「日本陸軍と中国」
平成二十九丁酉年
九月九日(土)
戸部さんの『日本陸軍と中国』は『「支那通」にみる夢と蹉跌』と副題が付く。佐々木到一と云ふ軍人を中心に書かれた。戦前の軍部を美化することなく、かと云って反日拝西洋でもない良心的な名著である。「支那」と云ふ呼称についても侮蔑で使ってゐるのではないことを断ってゐる。佐々木について
いわゆる「支那通」つまり中国スペシャリストとして、(中略)孫文はじめ中国国民党要人と親交を結び、第二次北伐に際しては国民革命軍に従軍もした。
明治期の軍人には、軍服を脱いで予備役になったり、陸軍大学校でドイツ人教官と衝突して退学したり、民間の就職とそれほど変はらない印象を受ける。軍人がエリートコースになったのは、日露戦争の後だらうか。支那通を養成する方法も変化した。
陸大卒業者のなかから適性のある者もしくは志望者を(中略)支那通として養成する方法を採用するようになったのである。

これは陸大の外国語教育が従来はドイツ語とフランス語の選択だったが、後にロシア語と英語が加はり、その三年後に中国語も加はったことにも表れる。その一方で
軍人の本来的な職務が部隊の指揮・運用にあるとすれば、(中略)情報のスペシャリストになろうとすること自体、もともと傍流の道なのである。しかも、陸軍の仮想敵国は(中略)一貫してロシア・ソ連であったから(中略)ロシア情報のほうが中国情報よりも重視された。


九月十日(日)
明治四十四年辛亥革命が勃発する。
日本政府は、革命派が主張する共和制の樹立を支持せず、清朝を温存した立憲君主制(中略)との方針を打ち出す。この方針を指示する電報を上海で寺西に突き付けたのが本庄繁であった。寺西は(中略)軍職を去ることを考えたが、思い直して帰国することになった。

ここで寺西とは漢口駐在の寺西中佐で
かつて寺西は袁世凱の聘に応じて約五年半、保定で軍学校教官を務め、一時帰国したのち、今度は湖広総督の招聘により武昌で軍学校教官をしていたが、そこで革命に際会したのである。

日本政府の方針が決まるまでは、本庄少佐も革命軍を援助してきた。
黒龍会から革命支援のために派遣された北一輝によれば、本庄は、革命軍の武器購入の仲介をしてやり、軍事情報に関する情報や関連地図を北に提供した。革命派が上海の江南機器局(兵器製造所)占領に成功したことには、本庄の協力もあずかっていた。

この当時、清朝の実力者の軍に日本の軍人が顧問や教官として勤務したが、それは各実力者の意向に染まり、なかには寺西や本庄のやうに革命軍を助ける者まで現れた。第一次満蒙独立運動もある。その中心は大陸浪人川島浪速だった。
参謀本部は多賀宗之を北京に派遣し、川島と連絡して清朝宮廷の内情を探るよう指示していた。
川島は(中略)粛親王など清朝皇族の清朝皇族の信頼を得ていた。粛親王は(中略)清朝の存続をはかるために結成された宗社党なる反袁グループのリーダーであった。

こののち清朝は没落し、今度は満蒙独立運動を開始し支那通軍人が協力した。しかし本国からストップがかかり失敗した。

九月十日(日)その二
辛亥革命の後は国内が分裂し各軍閥が割拠する。ここで注目すべきは
北岡伸一氏は次のように指摘している。中国に勤務する支那通たちはそれぞれ現地の有力者と親交を結び、その要求や利益を本国の陸軍中央に訴えるエージェントと化した。実際、支那通たちが現地の有力者を利用したというよりも、むしろ中国に割拠する軍閥や有力政治家が支那通を利用したのだ、と。

弊害はそれだけではない。外交までも実力者の要求を聞くやうになったため、外務省を無視する陸軍の体質はここから生まれたのではないか。
こののち多数の実力者が勝利しては敗北し、混乱を極めることになる。そこに蒋介石軍が南京事件を起こす。この本ではなぜかその前に第一次と第二次の山東出兵を入れる。ここでは本に沿って山東出兵に移る。
北伐軍が北上し山東に迫ると、日本は出兵に踏み切る。それは、北伐を阻止するためというよりも、戦乱によった日本居留民の生命と財産に被害がおよばぬよう保護することに、主たる目的があった。

結局、蒋介石軍は
南下してきた軍閥軍に敗れ、北伐を停止し責任をとって下野した。こうして、この第一次山東出兵は居留民保護の目的を達成し、軍事衝突も引き起こさなかったが、中国ではこれを武力干渉と非難する声が高かった。

武力衝突は起こさなくても、北伐軍の勢ひを止めて、軍閥に負ける原因とはならなかったのか。日中の不和の最初の始まりだった。

下野した蒋介石は来日し首相田中義一と会談する。帰国の後に国民革命軍総司令に復職し北伐を開始する。そのため日本は第二次出兵を行ふ。今回は日中両軍が済南で衝突する。この本はその詳細も後に回す。そして済南事件の後も北伐軍は北上し北京に入った。その前に張作霖は日本の勧告を容れて北京を引き上げた。ところが関東軍が張作霖を爆殺した。首謀者の河本大作について
一時は停職を覚悟で馬賊のもとに身を投じようとしたこともあるというから、支那通によく見られるロマンティストの一人だったようである。(中略)陸大卒業後、中支那派遣隊に勤め、第三革命に際し、命を受けて雲南の蔡鍔軍を助けた。

その後、参謀本部支那課、北京公使館付武官補佐官、参謀本部支那班長を経て関東軍高級参謀に就任した。
関東軍に転任してきたとき、河本はあまりの排日行為のひどさに衝撃を受けたという。排日はむしろ日本人の側にも責任があるのだと言う松井七夫や町野武馬など張作霖の軍事顧問を、河本は張に迎合する「寄生虫」「ダニ」と批判した。(中略)やがて関東軍では、河本の主張に押され、排張論が有力になってゆく。

しかし首相の田中義一と陸軍首脳は張作霖援助論だった。
田中首相は(中略)張作霖との間に新しい鉄道建設の了解を成立させた。しぶる張作霖を説得したのは、町野武馬の功績だという。

とかく近年の日本では、張作霖が満鉄平行線を建設したため爆殺したのはやむを得ない、みたいな議論が多い。私自身は、二十一箇条で租借期限の約束を破ったのは日本側だから日本が悪いとの立場だ。しかしこの辺りの田中義一の動きを見ると、事情はもっと複雑のやうだ。

九月十六日(土)
こののち張作霖爆殺事件が起きる。日本の書籍はこの辺りの客観的記述に乏しく、張作霖の満鉄平行線を強調して日本の立場を正当化したり、その逆で日本の帝国主義的行動を批判するかどちらかだ。私自身は今まで張作霖の満鉄平行線建設が原因で、しかし二十一箇条で日本が変換期限の約束を破ったのだから日本が悪いと思ってきた。また張作霖軍が敗北して満州に逃げてきて治安が悪くなり、在留邦人に被害が出るといけないので予防で張作霖を爆殺したのでは、とも思った。しかしこれらは日本の書籍にこの辺りの記述が乏しいため、これまでよく判らなかった。その点、戸部さんは詳しく書かれてゐる。
満州の治安維持のため、次のような方針が現地に指示された。奉天軍(北軍)が京津(北京・天津)地区で革命軍(南軍)と戦わず整然と満州に引き揚げる場合には、それを許し、北軍を追ってくる南軍の入満は阻止する。しかし南軍と戦って敗北した北軍が満州に逃げ込んだり、戦わないまでも接近しすぎた両軍が混乱したままで満州に進入しようとした場合は、南北いずれのを問わず武装を解除する、と。

武装解除するには満鉄沿線から離れるため奉勅命令が必要だった。
しかし、奉勅命令は下令されず、武装解除はできなかった。河本によれば、田中首相の側近に佐藤安之介のような「自由主義者」がいたので、そのために首相は躊躇したのだろうという(括弧内略)。だが、田中には最初から、よほどの混乱状態が発生しない限り、奉天軍を武装解除する意図などなかった、というのが真相であったろう。

そして爆殺事件を起こすが
奉天軍閥では、松井七夫顧問の推す楊宇霆と、奉天特務機関長(たまたま支那通軍人ではなかった)がバックアップする張学良との間に暗闘が始まり、楊宇霆は張学良によって謀殺された。(中略)親日勢力を育てようとした河本の試みは失敗に帰したのである。


九月十六日(土)その二
以上までが第二章で、ここから第三章が始まる。佐々木到一は国民党通で、河本大作に張作霖爆殺を吹き込んだのは自分だ、と主張する。これを以て佐々木を反中と決めてはいけない。佐々木は典型的な国民党通だった。孫文とも親密になった。列車の中で蒋介石を紹介されたが印象がなく、後年国民党の指導者になるとは夢にも想像できなかったと云ふ。
佐々木は国民党かぶれとして、陸軍(及びその支那通)でも異端だった。しかし孫文が亡くなり蒋介石が北伐を開始すると、佐々木と国民党、そればかりか日本と国民党の間に重大な反目が生まれる。孫文存命のころは
広東の租界、沙面では反英ストライキが発生した。国民党の指導によるストライキは四〇日あまりつづき、租界生活を麻痺させ、イギリス租界当局の屈服でようやく幕を閉じた。沙面に住む佐々木は多大の苦痛を味わったが、このストライキには大きな共感を寄せた。


九月十七日(日)
佐々木以外の旧世代の支那通たちは、北伐の進行にもかかわらず、あるいはむしろそれゆえに、国家統一へのきわめて悲観的な見通しを述べていた。
たとえば関東軍参謀長の斎藤恒常は、一九二七年の意見書で「革命以降支那に横行する所謂支那新人は之れ悉く偽支那人にして外国人なり」と述べ、中国の歴史、風俗、習慣を理解しない国民党指導者は外国人に等しいと批判した。さらに彼は、「支那人は統一の力なく従て又政府は国民を統一し得ず」と論じている(括弧内略)。

前半は日本にも当てはまる。明治維新以降日本に横行するのは偽日本人にして外国人だった。偽日本人にして外国人と、偽支那人にして外国人が交渉すれば西洋みたいに戦争になるのも当然だ。諸悪の根源は西洋にあることに気がつかなくてはいけない。
後半は日本にもあり得た。戦国時代の日本と同じことが中国では明治から昭和の初めに掛けて発生した。新世代の支那通はこれらの考へと異なる人が佐々木の他にも現れた。
佐々木と前後して二度広東武官を務めた磯谷廉介は、帰朝後の陸相官邸での報告会で、関東から生まれた新しい思想潮流に注意を喚起している。
磯谷によれば、この新潮流は、第一次大戦の民族自決主義に刺戟され、イギリス人から数十年虫けらのようにあつかわれてきたことへの反感が加味されたものである。国民党はこれを巧妙に利用しただけなので、新しい潮流を真に代表しているとは言えないが、だからといって北方軍閥の言い分を聞いて新しい潮流に逆らってはならない。(中略)日本としてはその進路が軌道外に脱線しないよう指導することが必要だが、それには、たとえ威力を用いる場合があっても、そこに民族自決を目指す動きへの同情と共感が宿っていなければならない。
南京事件・漢口事件のあとであるためか、この帰朝報告で国民党に対してかなり辛辣である。ただし、北伐を突き動かしていた民族自決や国家統一の動きを、磯谷が肯定的に評価していたことは間違いない。


九月十七日(日)その二
北伐に好意的でも、どこまで許容できるのか。佐々木は
列強の植民地の状態から脱し、名実共に独立共和国たらんとする若き支那の勢力は圧迫から覚醒したる民族の当然執るべき手段である。嘗(かつ)ては西洋の為めに数十年の屈辱を余儀なくせしめられたる我が日本として、此の不幸なる隣人に同情するは当然ではないか?況(いわん)や此(この)隣国が、独立の実を全(まっと)うし、東亜の動揺の因を除くことができるならば、夫(そ)れは兼ねて我が日本の利益でもある。(中略)勿論、革命支那人の帝国主義排斥が、我国の利益を冒(おか)す所は多々あるであろう。併(しか)し眼を大局に注ぎ、東亜永久の平和と日東帝国の安泰とを願念するならば、眼前の小利益を犠牲とするも(以下略)

実際には眼前の小利益のため日本は日華事変へと進んでしまふが、それはまだ先の話で、ここで第三章が終了する。

九月十七日(日)その三
第四章は南京事件で始まる。北伐軍が軍閥を破り南京に入城した。
従来、掠奪暴行は北軍の敗残兵によって引き起こされたものが大半だったので、南軍による城内制圧はむしろ避難民の安心を誘うものであった。

ところが南軍と市民が暴徒化した。
これがいわゆる南京事件(正確には一九一三年と一九三七年に南京で発生した事件と区別するために第二次南京事件という)のあらましである。(中略)この暴動に対して長江上の英米艦隊は砲撃を加えた。しかし、日本海軍は政府の指示を受けて「隠忍自重」し、砲撃を控えた。
本国政府の「隠忍自重」方針は、慰留民や野党から激しい批判を浴びた。

「隠忍自重」は欧米帝国主義に属さない痕跡だったが、野党の激しい批判があったことを考へると、もはや日本は欧米帝国主義の側に入ってしまったのだらう。
南京事件以後も、長江沿岸各地で外国人慰留民に対する排外的行動、あるいは集団的暴行が相次いだ。そのため、上海を除き(14の都市名は略)約三〇〇〇の日本人居留民が、営々として築き上げてきた生活拠点を棄てて、本国に着のみ着のままで引き揚げざるを得なかった。排外暴動には、租かい居留地で我が物顔に振る舞い中国人を見下してきた外国人居留民に対する長年の怨念が、北伐を契機に爆発したという側面もあった。避難民の体験談には、居留民の住宅での家内労働者(ボーイや女中と呼ばれた)に裏切られたという指摘がよく見られる。

従来はイギリスが反帝国主義の対象だったのに、今回は日本も含まれた。

九月十七日(日)その四
南京事件は共産勢力の扇動と当時は考へられた。そして蒋介石は反共クーデターを実行した。私は蒋介石のクーデターを、共産党との約束を破り、亡くなった孫文の思想にも反するものと考へてきたが、南京事件を考へるとやむを得なかったとも考へられる。ただしこの時点では、広東にあった国民政府は武漢に移動し国民党左派と共産党からなり、蒋介石の南京政府、軍閥の北京政府と、鼎立の状態だった。クーデターの五か月後に、武漢政府は共産派を排除し、南京政府と合同する。ここに国共合作は終った。
日本が打倒帝国主義のターゲットとなった原因は、主として、前年の山東出兵にあった。

ところが
日本政府(田中義一内閣)は居留民保護のため再び出兵を決定する(第二次山東出兵)。

そして日中両軍が衝突した。
済南事件後、知日派の外交部長、黄郛は失脚し、欧米派の王正廷がその後任になる。王は、英米との提携によって日本を牽制しようとする。

戸部さんの著述に一つ不審な点がある。南京事件の前に北伐の過程で漢口、九江のイギリス租界が実力回収された。そのときイギリスはどう対応したのか。外交力の差が中国をイギリス側に付かせる原因になったのではないのか。

九月十七日(日)その五
旧支那通の代表的人物、坂西利八郎はすでに現役を退き貴族院議員になっていたが、満州事変の約一年前、中国を視察し、その帰国報告のなかで次のように論じている。国民党の統治は中国の現状に適合していない。これに比べれば、北方の張学良の統治方法は中国人一般に好まれている、と「民国の現状と日華の将来」)。
これに対して新支那通は、張学良の統治を軍閥による圧政にほかならないと分析していた。また、張学良は易幟(掲げる国旗を変更すること)によって満州を国民政府の統治下に入れたが、それは名目的なものに過ぎず、事実上の国内分裂は少しも改善していないと見られた。蒋介石は国民党を私物化し、権力の独占をはかっていると観察された。

蒋介石が国民党とはうらはらに権力を独占してゐたことは、蒋介石の死後に息子が台湾の総統に就任したことから明白だったが、張学良の易幟が名目だけなのは、知らなかった。それより国民党より軍閥を好むと断定した理由は何なのか。国民党の権力を蒋介石が独占したことなのかべつに理由があるのか。

九月十八日(月)
蒋介石が張学良に監禁される西安事件が起きた。
作戦部長石原莞爾のもとでは、西安事件の衝撃や抗日運動の高まりを受けて、対中政策の再検討作業が進行中であった。石原の影響を強く受けていた参謀本部第二課(戦争指導課)の文書は次のように述べている(括弧内略)。
西安事件を契機として、中国では内戦反対の空気が生まれると同時に、国内統一の気運も高まったが、(中略)こうしたうごきのちゅうしんにある抗日人民戦線派の実態も、日本の出方によっては、新中国建設運動に転化し得る可能性が大いにある。つまり、日本が「従来の帝国主義的侵寇政策」を放棄できるかどうかに、それはかかっているのである。新中国建設・国家統一運動には日本は援助の労を惜しむべきではなく、これまでの「侵略的独占的優位態度」かを是正しなければならない。

同じ事は支那課長の永津も検討し、それは
租界、居留地、治外法権、軍隊駐留権(満州以外)等の権益を放棄することであった。

しかし永井は、とても無理だと結論づけた。それは
陸海軍も、居留民も、紡績業を代表とする現地企業も、国内世論も、既得権益を放棄する政策転換を支持するとは思えなかったからである。

こうして日本は泥沼の戦争に突入して行った。ここがイギリスとの違ひだった。(完)

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