三千三百四十五 物語(AI三人、鎌倉時代へ)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
十月三十一日(土)
はじめに 鎌倉仏法
飢饉疫癘や内乱が続いた鎌倉時代後期に、AI三人が行くことにした。記憶は完全に消失し、永禅和尚と良寛和尚は律宗と曹洞宗の僧、
石原は侍所の寄人(よりうど)になった。奇人ではない。別当の補佐が所司、その下に寄人がゐた。戦前で云へば陸軍の、陸軍省各局長及び参謀本部各部長だった。
第一章 永禅和尚現れる
永禅和尚は、鎌倉時代にも律宗の僧である。律宗は、奈良仏法の一派だが、鎌倉仏法が現れるまでは、日本中の宗派が天台宗を除き一つの宗団だった。つまり、奈良仏法の各宗派と真言宗は、学部、或いは研究室、だった。
まづ、平安時代に天台宗と名乗るカルト集団が現れた。天皇の勅許で、独自の戒壇を作ったので、カルトと呼んだら、死罪だらう。しかし今は、鎌倉時代だ。
永禅和尚はまったく気に掛けず、辻説法する坊主とは少し離れた場所で、比叡山の門流は戒律を持たないので仏敵だ、鑑真和尚はなぜ日本に来たか、と鑑真和尚の功績を並べた。二つを聞比べると面白いので、鎌倉中の評判になった。
幕府は執権を始め連署など身分を隠して聴きに行った。役人の中からは、信者になるものも出た。しかし、相反する二つが牽制し合ふので、悪影響はない。
このうち鎌倉教祖のほうは、他宗派の悪口を並べる。今で云ふ、リベラルと右翼ごっこなので、幕府は馬鹿々々しくて気にも掛けなかった。だからこの男は、佐渡に流されることもなく、そこで教義が狂気と化すこともなかった。
第二章 良寛和尚現れる
少し遅れて、良寛和尚が出現した。曹洞宗は、道元が比叡山で修行したので、具足戒を所持しなかった。だから良寛和尚も、持たなかった。とは云へ、別の戒律は保った。
良寛和尚は、戒定慧のうち定を強調した。内乱は、幕府の内輪の争ひだ。幕府内部が、戒定慧、特に定を重視すればよかった。この一言に尽きた。この当時、臨済宗が広まったが、権力争ひに明け暮れる人たちが、一瞬の安らぎを求めるだけなので、無力だった。
鎌倉教祖が今を末法とする主張には、反対だった。たまたま乱世で末法と定義付けても、平和な世に戻った時にどうするか。既得権で甘い汁を吸った連中が居座るだらう。だから、末法は飢饉や疫病の終了とともに、終はる。それなのに、あの辻説法は、今後ずっと末法が続くと云ふではないか。
第三章 石原莞爾
石原莞爾は、幕府の侍所高官だった。とは云へ無欲な男なので、余った金は真言律宗の慈善事業に寄付してきた。発言力はあるので、幕府の軍事改革を進めた。
鎌倉教祖の会員が、田中智学の名演説で広まったのに、国は亡びた。正確に云へば、終戦であり、滅んだのは英語公用語だのLGBT法が出て来た時だった。
生前の記憶はすべて消滅したのでその事は気付かなかったが、無意識のうちに、あの辻説法は役に立たないと直感した。そして、慈善事業に寄付をした真言律宗と、石原と同じく無欲の良寛和尚に、親しみを持った。
石原の軍事改革は、北条宗家や、その内管領が既得権を維持のため、たびたび妨害にあった。石原は嫌気がさし、御家人の地位を甥に譲ると、信徒として二人の和尚を応援する活動を始めた。そして、非僧非俗を名乗った。
第四章 鎌倉仏法は生まれず
法華経を掲げる僧は、辻説法の競合者が三人現れ、しかも三人のほうが人気がある。佐渡に流されることは無く、教義は変化しなかったので、死後は天台宗に吸収され、比叡山の中では法華経派と呼ばれた。
石原が非僧非俗を名乗るので、元祖非僧非俗の真宗は、単なる妻帯か、世襲か、と人気が無くなり、浄土宗に吸収された。永禅和尚が、戒律と鑑真和尚を声高に提唱した影響も大きかった。
声高な提唱は、天台宗、浄土宗、臨済宗、曹洞宗にも影響し、具足戒を受けるやうになった。更に、宗派は学派になり、僧侶はいろいろな宗派を兼任するやうになった。
これで日本の仏法は、海外に並んだ。国際派の三人は安堵した。
具足戒排他宗団 秋津洲仏の道に欠陥は 徳川の世に寺請けへ 明治維新で妻帯と化す
反歌
海外に劣る二つに気づかずに月氏へ帰る予想を教祖(終)
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