二千八百七十二(うた)(モリカケ桜フジ河柳ジャニーズ藪黒敗トリー放債カルト裏安、三百四十)北村春男の無教養発言(その二)
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
七月三十一日(木)
SPAのホームページに
石破首相を「どこまでも醜い、奇妙な生き物」と表現した北村晴男氏。この一件を“個人の暴走”として矮小化してはならない理由

が載った。
北村氏の発言(中略)を個人の問題として矮小化するわけにもいきません。なぜなら、今回の一件には現代の政治や選挙が抱える問題がわかりやすくあらわれているからです。
まず、北村氏の“悪口”には全くセンスがありません。(中略)悪口がよくないという意味ではありません。むしろ、悪口ほど言語能力が問われる技術はないということです。
(中略)北村氏が石破首相を「醜い」と称する心理には、彼の主義主張と石破氏の政治姿勢が相容れないものであるという思いがあります。
しかしながら、相容れないと表明しただけでは北村氏自身が正しさや優位性を証明できません。そこで、石破氏のビジュアルを揶揄することで、自らの正義を主張する方法を選んだのです。

そのとほり。
北村が醜いだけなら許容範囲に 北村が奇妙な生き物やや問題に 北村が三つ合はせて大問題に


八月一日(金)
石破=醜い=間違っている。こういう論理を打ち立てるために、刺激的な言葉を単純に直列で並べたわけです。
(中略)刺激的なメッセージを強い言葉で伝えようとすると、内容と語句の形状が密接につながっているために、ひとたび間違うと身動きが取れなくなってしまうのです。
(中略)かつての政治家は、もっと言葉に対する警戒心を持っていました。(中略)それが様変わりしたのが、平成以降の劇場型政治です。そしてSNSによって加速度的に政治の言語が劣化していっています。

ここは少し意見が異なる。昔の政治家は、発言能力を持ってゐた。社会党が消滅した時から、政治家は当たり障りのない言葉に終始するやうになった。そのことの不満が劇場型に向かった。
そしてもう一つの問題は、(中略)SNSでの影響力と結びついたときの依存性です。SNSへの依存はヘロイン中毒に似ているという説もありますが、(中略)SNSが負の感情に対して大きな成功報酬をもたらす構造を持っているからです。
つまり、ある日突然北村氏は石破首相を「醜い」と言うようになったのではない、ということです。『行列ができる相談所』に出演していたころの余裕とユーモアのある語り口が、政治に関わるようになってから様変わりしてしまいました。そして、その過程にSNSが深く関与しているのです。

SNSの有害性を、専門家はどんどん指摘してほしい。フランス革命や文化大革命と変はらない。或いは、ヒトラーやムッソリーニと変はらない。そして、拝米やリベラルと変はらない。三番目は、耳の痛いマスコミがほとんどのことだらう。
激情は劇場型の政治にて フランス革命ヒトラーやムッソリーニと 拝米リベラル

反歌  最近のSNSは注意せよ同じ指向の人のみが棲む
議論は、反対意見があって成り立つ。同じ意見の人たちばかりが集まっても、役に立たない。

八月二日(土)
対立する勢力に向けた批判、罵倒、呪詛を喜ぶフォロワーが増えていき、自身の影響力の大きさに自信と快感を得る。そうした日々の繰り返しが、今回の暴言を生む温床となったのです。
(中略)悪口を期待され、応えようとすると、負の感情の奴隷になってしまう。瞬間的な「いいね」は、そこで立ち止まって考える余裕を奪います。(以下略)
北村氏のように(中略)70歳近い立派な人物であっても、なにかの拍子にこのルートに乗っかってしまうと、冷静な判断力を失ってしまうのです。
だから、今回の騒動は北村氏個人だけの問題ではありません。
SNSを上手く活用した人間が有利な選挙戦だとするならば、ゾンビのような中毒者が勝者となる。そんな危険な時代を迎えているからです。

比例区で個人得票数が最高でも、かうなってしまふのだから、恐ろしいことだ。カルトの応援で政権を維持した人と、同程度だ。今回の発言は、カルトの応援で政権を維持した人が過去に擁立した高市を、持ち上げたいために起きた暴言だった。(終)

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