二千四百九十(うた)彦根多賀守山旅行外伝
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
九月二十三日(月)
父の作った資料では、老人が皆亡くなり、小浜藩士の岡見家へ嫁入りした九十歳の老人から話を聞いた、とある。滋賀県小浜町に藩があったのだらうか。インターネットで調べると、野洲郡は
幕府領(大津代官所)、旗本領、公家領、施薬院領、西大路藩、大溝藩、三上藩、宮川藩、山上藩、山城淀藩、武蔵川越藩、丹後宮津藩、河内狭山藩、上野前橋藩、和泉伯太藩、陸奥仙台藩

とある。このうちどこかの藩に所属し、九十歳だから居住地と藩名を混同したのだらう。小浜は福井県小浜市で「おばま」、滋賀県守山市小浜町は「こばま」である。
Googleの「AIによる概要」では(以下は間違ひだらけである)
滋賀県小浜町は、江戸時代に小浜藩が支配していた「嶺南」に含まれていました。
小浜藩は、福井県に所在する江戸時代100藩のひとつで、(以下略)

最初これを真に受けて、小浜藩を調べた。若狭の約二百五十村と、越前のうち四十九村、近江の高島郡の五村を支配した。しかし小浜町は高島郡ではない。それで気付いた。
寺名から調べた時に、同じ名前の寺が周辺に点在し、すべて浄土真宗系の少数派がほとんどだ。だからてっきり浄土真宗だと思って調べたが、今回の旅行で浄土真宗は墓が無いと説明を受けて、違ふことに気づいた。お墓を東京へ移した後のお寺は、浄土宗だ。
小浜町にはお寺が二つあり、一つは浄土宗だ。と云ふことで、廃寺になりこのお寺に併合されたのだらう。これでお墓とお寺の問題は解決した。
父の資料では、初代が織田信長の家臣。七代目まで郷士として摂津の大坂に住居し、八代目で町人になり滋賀県小浜に住み、明治元年京都に移ったとある。九代目(父の祖父)のときに東京へ出た。
維新後に町人になったのではなく、幕末の混乱のときか。その前は、小浜の藩士に嫁いでゐるから、藩士だったのだらう。
ささなみが滋賀のうみにも大波と成りて押し寄せ 小浜では世に先駆けて大きく変はる

反歌  古き世が黒船により崩れ落ち皆が変はりてお寺も変はる

追記九月二十六日(木)
彦根多賀守山旅行外伝から上記を独立させ、元の頁は「彦根多賀守山旅行と鉄道」と改称した。
------------------ここから、大河ドラマ批判------------------
彦根市では井伊直弼を誉める言葉として「開国」が使はれる。しかし開国は、黒船の強制でやむを得ず行ったものだ。自発的に開国したのなら偉い。強制で板挟みになり、やむを得ず行った。褒められることではない。井伊直弼は「花の生涯」の主人公。これを誉め言葉とするとよい。
同じこと繰り返すとき後のもの先より悪く 源は大きな河も清い水末は汚く臭ひを放つ

反歌  直弼は花の生涯それまでの黒き姿を花へと変へる
長歌は、長く続く大河ドラマを批判した。花の生涯は第一作だ。(終)

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