二百七、下町の話題(大江戸神輿まつり、テレビドラマ「時間ですよ」)
二六日に「大江戸神輿まつり」を改題

平成二十三年
十月十日(月)「木場公園」
九日は木場公園で第九回大江戸神輿まつりがあつた。大江戸と名前が付くものの千葉、茨城、神奈川など東京以外も多かつた。東京から下町が消滅した。下町とは庶民の街であり、下町消滅は一億総中流の崩壊でもあつた。かねてそう考へてゐたため見に行つた。

十月十三日(木)「一億総中流」
本来は上流層と下流層である。しかし下流も不満はなかつたし、人数も国民の大多数だつた。だから自分たちを下流とは思はず中流だと思つてゐた。これが一億総中流であらう。
しかしバブル経済がそれを壊した。

十月十五日(土)「一億総中流の別の解釈」
高度経済成長で下流層の収入が増大したために中流に見へたといふ解釈もできる。しかし少なくとも昭和六十年くらいまで個人商店や職人の収入はサラリーマンより多かつた。下町にサラリーマンは中流で、昔ながらの職業は下流といふ意識はなかつた。
当時は国鉄のストライキも毎年あつた。やはり国民の大多数を占める下流層が自分たちは中流だと思へる社会だつたのであらう。

十月二二日(土)「社会のない社会」
日本のように転職の少ない社会では、会社が社会である。だから目が本物の社会に向かない。首都圏、大阪圏以外ではまだそこまで行つてゐない。日本人の規律ある態度が海外から賞賛されたが、震災がもし東京で起きたらあれだけ規律ある行動が取れたか。
そのためにもお祭りは重要である。大江戸神輿まつりの参加者は印半纏を着るので最初は恐そうに見えるが、善良な老人や若者たちである。子供や孫を連れた人や子供にも半被を着せた人もゐた。若い女性も多かつた。
半纏を着れば暴力団と関係があるのではないか、三味線を弾けば水商売ではないかと思つてしまふその思考形態は、テレビの影響であらう。今は暴力団がスーツを着るし、ギターを弾く反社会的な連中もゐる。日本のものは悪くて西洋が良いといふ思考の典型である。

十月二三日(日)その一「祭囃子」
中央広場には江東区無形文化財に指定された祭囃子も出演した。祭囃子は聞いてゐて心を和ませる。祭囃子をもつと世の中に広めるべきだ。祭囃子だけではない。三味線や民謡など庶民に親しめる日本音楽を広めるべきだ。
会場の裏には舞台もあり、和太鼓、お囃子、相撲甚句、津軽三味線のほかに歌謡なども出演した。プロの歌手やグループを呼ぶのなら、日本古来の音楽をもつと出演させたほうが会場の雰囲気と調和するのではと思つた。

十月二三日(日)その二「競技としての大江戸神輿まつり」
審査のときの担ぎ手が多すぎて窮屈そうな団体が幾つもあつた。一人の唄に合わせて皆が節の変わり目に掛け声を合わせ神輿を進める団体もあつた。この団体は昔から伝はつた方法なのであらう。
各団体はそれぞれ持ち味がある。大賞や各スポンサー賞を審査するのは無理がある。各団体のよかつた点ともしあれば悪かつた点を発表したほうがよいように思ふ。そうすれば審査のときに担ぎ手が混むこともなく連合渡御など全行事に担ぎ手を分担することもできる。残念なことだが、東京の下町はマンシヨンが急増し、郊外は農村が急激に宅地化したから伝統芸がない。大江戸神輿まつりから全国神輿まつりに拡大し、全国各県持ち回りでテレビ局にも放送させる時期なのかも知れない。

十月二四日(月)「『時間ですよ』のふるさとから銭湯が消へた」
地下鉄の駅に半被を着て公園に向ふ人が二人ゐた。木場公園に向ふ途中でも一人ゐて背中に「根津」と書いてあるので話しかけると文京区向ケ丘の人だつた。根津に住んでゐるのではなく根津権現の氏子といふ意味だつた。
昭和四五年から平成二年まで「時間ですよ」といふ人気テレビドラマがあつた。昭和四五年、四六年後半から四七年前半、四八年と三シリーズに亘つて三十週くらいづつ放送された。東京五反田で松の湯の設定で天地真理と浅田美代子が国民的アイドルとなつた。「時間ですよ昭和元年」は四九年後半から五十年前半に東京湯島の亀乃湯の設定だつた。
「時間ですよふたたび、たびたび、平成元年」は東京根津の「梅の湯」が舞台で六三年から平成元年まで放送された。
私は四八年しか見なかつた。たまたま六四年の正月に「時間ですよ」の特番があり観たところ、舞台が根津に移つてゐた。
その根津周辺には六軒の銭湯があつたが次々に廃業し最後は山の湯だけになつた。その山の湯が東北大地震で廃業した。煙突が倒れたのである。代替の銭湯が掲示されてゐるが、根津から大塚三丁目まで風呂に入りに行くのはいくらなんでも遠すぎる。
それより地図に書かれた銭湯は私が前に勤めてゐた会社の斜め向かひではないか。あの会社は社長と営業部長の仲が悪くて、私はとばつちりを受けて今の会社に転属させられた。 ちなみに六龍鉱泉といふ銭湯が上野動物園の裏にあり歩いて一kmくらいである。こちらのほうがはるかに近い。観光客の皆さん。上野動物園に行くときは石鹸と手拭いを持ち、帰りに六龍鉱泉に寄るとよい。

十月二五日(火)「昭和から平成へ」
「時間ですよ」はギヤグと下町ホームドラマと劇中歌(Youtubeのリンク先は削除されたので代はりに天地真理単独の歌、屋根の上で歌う光景は無し)で人気を博した。昭和四六年の「涙から明日へ」では左側の木造の壁が珍しいと感じる人が多いだらう。しかしあの形態の家は当時はまだあつた。四八年の「街の灯り」では木造の壁がなくなつてゐる。違和感を感じる視聴者が多くなつたのだらう。
その後平成元年に番組は終つた。プラザ合意の円高とその後のバブルで国民の生活が大きく変はつたためである。国民の多くが銭湯や木造の家に違和感を感じるようになつてしまつた。「赤い風船」(これも番組の歌はYoutubeからさ駆除されたので浅田美代子単独)もこの番組から生まれた。

十月二六日(水)「大滝秀治」
地下鉄の駅ができる前は、根津といふと東京に詳しい人が「根津権現のあるところですか」と言ふくらいだつた。だから私も「上野動物園の近くの根津に住んでいました」といふようにしていた。二十年くらい前に、何を聞き間違へたのか「へえー、上野動物園に住んでいたんですか」と言ふ人が居たので上野動物園の話はしないやうにした。
昨日、俳優の大滝秀治の文化功労者受賞が決まつた。大滝秀治は根津の出身で私の父より一歳くらい下だつた。私の父は小さいころよく大滝秀治と遊んださうだ。生前そう言つてゐた。
母が言ふには、大滝秀治のお母さんと真島湯といふ銭湯でよく会つたそうだ。真島湯は谷中真島町にあり、根津近辺では二番目に繁盛してゐた。
大きい銭湯が早々と廃業する中を、一番小さい山の湯が最後まで営業するのを見て、大きいところは固定費と期待する収入額が高くなるためだらうと考へてゐた。その山の湯もつひに廃業した。

十月二九日(土)「下町に地下鉄はいらない」
下町に地下鉄は要らない。ああいふものを作るからマンシヨンが増へる。千代田線は西日暮里の次は新御茶ノ水でよい。千駄木、根津、湯島は廃止すべきだ。
東西線は西葛西の次は日本橋でよい。南砂町、東陽町、木場、門前仲町、茅場町は要らない。茅場町は乗り換へ専用駅として残しても良い。

十月三十日(日)「銭湯の燃料」
かつては風呂屋の仕事の一つにリヤカーを引いて板切れなどを集めることがあつた。小学校の同級生の両親が山の湯の経営者だつたが、経営者が変わり転校した。噂では怪我をしてリヤカーを引けなくなつたらしい。
脱衣所には子供の服を脱がすのを手伝つたり籠を片付ける女性がゐた。「時間ですよ」の浜さんや美代子の役である。その後、燃料は重油になり今では都市ガスのところもある。大量の水道と燃料の消費がいつまでも続くはずがない。
根津で最後から二番目に残つた宮の湯のボイラー(その一その二を見てゐると、今にもけんちやんが出てきさうである。(完)


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