千四百四十一 1.信濃のコロンボ、2.ダブルクラッチの音、3.新・信濃のコロンボ
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
六月七日(日)信濃のコロンボ「願望の連環」
「信濃のコロンボ」は、日曜午後二時に放送されてきたが、第十六作「願望の連環」は放送せず飛ばして十七作に進み、五月十日に最終回十八作を迎えた。
それから一ヶ月ぶりに、本日第十六作「願望の連環」が放送された。再放送にあたり出演者全員の了解を取るのに時間が掛かったとも考へられるが、別の理由もあり得る。まづ、初期の作品に指摘した、老若男女すべてが観るには不適切な場面がある。
二番目に、二つの殺人を計画したものの実行しなかった男が、逮捕をされずそのまま釈放になった。この男は、別の自殺にも関係するから、三つの事件の原因だ。経済の不正でも捜査が進むのだから、そちらで逮捕してほしかった。
三番目に、前回と今回出演した度会警部の動作が、今回だけわざとらし過ぎる。しかしこれは許容範囲だ。コロンボが岡部警部と朝食を食べて、魚の皮を勝手に貰ふ場面は、いじきたなさ過ぎる。
十八作も制作すると、不出来のものも現れるのだらう。原作の流れに無理があり、テレビ化するときにそちらへ注意力を取られ過ぎたのか。

六月八日(月)ギアチェンジ時の音
昨日、インターネットの記事で、ターボの自動車はギアチェンジのときにプシューと音がしたと云ふ。不要になった圧縮空気を逃すための弁で、1.吸気側に戻す、2.大気へ放出、の二種類があったと云ふ。2.はガソリンを大気に放出するから、純正品にはなかった。プシューと云ふ音は2.のみだ。その後、ターボ車は姿を消し、しかしエンジンのコンピュータ化で再び登場した。ただし2.は違法だから、今後現れるとすれば1.ださうだ。

この記事を読み、バスのシフトダウンのときの音を思ひ出した。昔、母の実家に宿泊すると、朝の静けさの中を遠くに浅間温泉から美鈴湖、美ヶ原に向かふバスのエンジン音が、かすかに聞こえた。
山道を登るときに、シフトダウンする。そのときダブルクラッチでギアチェンジするから、一回空ふかしをする。全体の音は、ブォー、ブァン、ブァー、となる。ブォは低速回転、ブァが高速回転を表す。
話は南関東に戻り、1993年まで国際興業のバスは私の見る限り、すべてダブルクラッチでギアチェンジをしてゐた。1986年くらいに、白ナンバーの観光バスの運転手にPA停車中にそのことを質問すると、シンクロが付いてゐるからシングルで可能とのことだった。
1993年に横浜へ転居した。横浜市営バスと臨港バスもダブルでギアチェンジしてゐたと思ふ。或いは電気式の間接マニュアル車で、シングルでチェンジしたかも知れない。市営バスに、オートマ車も極めて僅かだが現れた。その後、さいたまに帰省すると、国際興業も間接マニュアル車ばかりになった。

六月九日(火)新・信濃のコロンボ「追分殺人事件」
昨夜は、「新・信濃のコロンボ」を観た。出演した俳優を知ってゐるなら、誰がどの役かすぐ判るだらう。しかし私は、中村梅雀以外は知らない。
最初は、コロンボと岡部警部と他の刑事二人の区別がつかず、しかしコロンボは主役だから、すぐ区別できるやうになった。
岡部警部と他の刑事二人は、最後まで区別がつかなかった。なぜこんなことになるかと云へば、個性がない。同じ種類の俳優を何人も登場させると、かういふことになる。(終)

追記六月十三日(土)新・信濃のコロンボ「追分殺人事件」を再度観た
本日は「新・信濃のコロンボ」を再度観た。そのあと時間を置いて、何回も観ると退屈する部分は早送りで三度目を観た。
二度目の途中で、岡部警部の顔がやっと判るやうになった。ところが暫く登場しないと、誰なのか判るのが一瞬遅れる。コロンボと岡部警部が同じ種類なのが、今回続くであらうシリーズ最大の欠点だ。
各出演者については、それぞれ演技力の優れた人たちばかりだ。そこがNHK大河ドラマとの大きな違ひだ。捜査会議の規模が、今までは署長を中心に署の担当警部と県警から来たコロンボが両脇だったのに、今回は多人数に膨張した。コロンボは参加者席だ。
実際の捜査本部はこれが正しいとしても、これはテレビドラマだ。実際は多数の分担作業で捜査が進むが、テレビドラマではコロンボのひらめきで犯人を割り出す。だから小規模がよい。
今回は、世間に出回る四流刑事ドラマ(「相棒」の一部作品?)の真似をして、階級や大組織にこだはるやうになった。この部分は興味半減だ。

追記六月十四日(日)新・信濃のコロンボ「追分殺人事件」を四度観た
本日は昨日と同じやうに、重要な部分を観た。とは云へ全体の八割は観た。デカ長(巡査部長の刑事)がいい役を演じてゐる。コロンボの部下なのに年上で、しかしデカ長の奥さんがコロンボの奥さんに気を使ったり、コロンボとデカ長が協力してそれぞれ活躍したりと、良好な人間関係を描く。
かう云ふ人間描写が重要だ。これが大河ドラマに欠ける。「いだてん」では加納治五郎をずるい性格に描いてしまった。「真田丸」では真田昌幸をずるい性格に描いてしまった。そもそも大河ドラマは、人間関係を描けない。

追記六月十六日(火)「新々・信濃のコロンボ」の推理
前作と異なり、大規模の捜査会議は、このドラマの魅力を半減させる。今回の事件の鍵はここにある。そこで新・信濃のコロンボに倣ひ推理してみた。
番組の裏方など関係者も、一回はテレビに映りたいだらう。それとは別に、プロダクションから出演料は要らないから顔だけでも映してくれといふ要望もあることだらう。さう云ふ人たちを一同に映した。これが今回の仮説だ。
「信濃のコロンボ」の前作は、2009年までに八年間で十八作が制作された。制作のときは全力疾走でも、11年間の空白期の後は、期待とともに気のゆるみが生じたのではないだらうか。
とは云へ、五十七年間続く大河ドラマや、二十年間続く相棒ほどひどくはない。単に捜査会議が大人数だっただけだ。しかしコロンボが主催者側の席に座らないと、魅力が半減する。組織に埋没するからだ。

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