千二百七十七 役所と公共産業は感性が悪い(4.京成電鉄)
平成三十一己亥年
三月三日(日)
京成電鉄の問題点は
(1)千葉中央から先は料金が二重取りになる。例へば京成千葉から一つ先の千葉中央までは140円だが、二つ先の千葉寺までは280円に跳ね上がる。たまたまJR千葉駅で降りて大森台に行く用事があった。京成千葉駅の料金表をみたら高い。元は別の会社だったが経営破綻し京成電鉄が引き継いだことを知ってゐるから(正しく云ふと、引き継いだことは知らず、別の会社なのに京成電鉄と書いてあるのは印刷ミスかと思った)、千葉中央まで歩いてから乗車した。京成千葉と千葉中央は近いので歩けば安くなることを知らない人は、高い料金を払はされてしまふ。公共産業だから気付かない無神経と云へる。純民間企業ならとっくに料金体系を変更する。解決策として千葉中央から先は旧千葉急行線として京成とは別の料金体系であることを判り易くする。二番目に京成千葉から千葉中央までは料金体系を特例にする。
(2)駅名の付け方が悪くなった。葛飾駅は西船、黒砂駅はみどり台、千葉海岸駅は西登戸になった。京成本線にはユーカリが丘駅まで出現した。
(3)京成本線と成田スカイアクセス線はどちらも成田空港に行くため、間違へやすい。外国人にはほとんど理解不能だらう。それを防ぐために、京成本線は成田または東成田行きにする。東成田から成田空港第2ビルまでは地下道があり歩けるから、別に困らない。乗り間違へを防ぐにはこれがよい。
(4)新しい成田空港駅が出来た時に、運賃が値上げされた。これは成田空港高速鉄道が所有する施設にJR東日本と京成電鉄が乗り入れるから、その使用料と説明されてゐる。私が見たところ、東成田駅は旧成田空港駅なので旧料金なのだらうとスーツケースを持って歩いたが、運賃は同じだった。運賃の節約が目的ではなく、地下道を一回は歩くことが目的だから構はないのだが、やはり変だ。だからと言って運賃が違ふと歩く人が続出するといけない。ここは成田空港駅と第2ビル駅までの料金を元に戻すべきだ。電力会社が新しい送電線を作ったからと電気料金を値上げすることはない。同じやうに便利になることにより乗客が増へたのだから、成田空港高速鉄道に払ふ分は、販売促進費用として京成電鉄が負担すべきだ。
(5)上野方面のホームに成田空港行きの電車が来た。驚いてよく見たら羽田空港行きだった。京成電鉄だけの責任ではないが、京浜急行と京成電鉄の連帯責任だ。更に空港公団や国土交通省も巻き込んでも良い。紛らはしい名称は追放すべきだ。

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---------京成資料集(3.NHK第二部で使用)---------------------------------------------------------------------------------------------
資料集1私は京成電鉄沿線の元住民だった
私が昔住んだ家からトロリーバスに乗り二つ目の停留所が上野桜木町だった。ここには京成電鉄の地下駅(寛永寺坂)の跡があり、地上の建物には確か台東商事とか云ふ会社の看板が掛けられてゐた。トロリーバスの折り返し場もあり、今井や亀戸駅から鶯谷駅行きのトロリーバスはここで折り返した。トロリーバスが廃止になり都バスになると、上野桜木と方向幕に書かれたバスが2台くらい停車してゐた。
小学校低学年のときに、幼稚園の下を地下鉄が走ってゐたと云ふ友だちがゐた。当時は昭和三十五年頃で地下鉄千代田線は開通してゐなかったから、これは京成電鉄のことで、寛永寺幼稚園の地下を走った。

資料集2準急、急行、不定期急行
昔は準急、急行、特急「開運」「瑞光」があった。急行には通常の急行の他に不定期急行があり、これは列車名が付いた。私の記憶では「急行 水郷」がある。不定期急行は上野に到着すると、準急成田行きとして折り返した。この当時、成田行きはすべて準急で、たまに急行があった。
後に、準急が急行、急行が特急と改称され、今に至る。

資料集3京成電鉄で記録しておきたい内容
(イ)昔は上野に向かって日暮里駅の手前で地上から高架になったが、ホームと平行して高架の左斜め下に留置線があった。といっても架線が無く線路は焦げ茶色に錆びて、まったく使はれてゐなかった。小学生のとき友だちが、ここに電車が入り、職員が多数で押して動かすのを見たと云ふ。そのときは半信半疑だったが、当時国鉄の貨物扱ひ所や仕訳線では人力による貨車の移動(バールを使へば1人でも動かせた)が行はれることを後に知って、京成電鉄の電車か或いは事業用の貨車を人力で入線させたのだらうと、思ひ直した。
(ロ)京成電鉄に乗る機会はほとんどない。それなのに、嘔吐物を赤電の車内で一回、青電の車内で一回、海神だったか大神宮下の成田方面のホームのベンチ(昔は駅の壁に作り付けだった)に座った人が嘔吐中を上野方面の車内から一回の合計三回見たことがある。いづれも私が小学生のころで、昼間だから酔っ払ひではない。当時は保線が悪いためか京成はよく揺れた。例へば、自転車で荒川土手を走り、立石駅だったか荒川駅(現、八広)附近の土手との交差を3000形が通過した。車体が大きく上下に揺れるのが見えた。暫く見てゐると3200型が通過した。こちらは空気ばね車なので、車体の縦揺れは外から判らなかった。あと、これは今から20年くらい前まであったのだが、京成八幡から京成船橋辺りまでで一箇所、上り勾配がら下り勾配に急転するところがあり、たまたま家族で海外旅行に行くためスカイライナーに乗ってゐたら(一人で行くときは料金の掛からない特急に乗る)、ジェットコースターみたいに体がフワッとした。あの一回だけで乗り物に弱い人は酔ふ虞がある。
(ハ)小学校のときの友達で鉄道が好きな人がゐた。私が多少鉄道に関係するのはそのためだ。その友達と三人で京成電車に乗るうちに、日暮里駅の若い駅員と仲良くなった。三人は日暮里駅までの切符を買ってあるのだが、あるとき買ひ物に行くから持つのを手伝ってと云はれ、三人分の切符は京成と国鉄の連絡改札に渡して通り、谷中銀座川の改札を出るときは「頼む」と言ってそのまま三人も通った。切符は買ったのだから無賃乗車ではないが、国鉄の改札は駅員の顔パスで通ったことになる。昔はずいぶんいい加減なものだった。あと注目すべきは、国鉄と京成は連絡してゐた。だから武蔵野線の南越谷と東武線の新越谷はなぜ駅名が違ふかといふと、連絡しないことを宣言したのだった。もう一つ注目すべきは、買ひ物で私は大根を持って京成の事務室まで届けた。あの当時は、外食せず自分たちで調理したのだらうか。
(ニ)青電は三両または四両編成、赤電は四両編成でのちに特急(昔の急行に該当し、「開運」や「瑞光」ではない)は六両になった。青電で、運転席と客室との間が路面電車みたいに横棒の車両に一回だけ遭遇したことがある。
(ホ)昭和四十六年辺りから、車内放送のBGMに童謡を用ゐたことがあった。私は気に入ってゐたが、いつの間にかなくなった。京成電鉄の誇るべきは、行先表示板の図形と、童謡をBGMに用ゐたことだ。
(ヘ)成田空港への延長のために京成上野駅を改造する前は、上野駅は三番線まであり、私の不確実な記憶では成田に向かって一番左のホームは、特急「開運号」「瑞光号」専用だった。京成上野駅の改造中は、日暮里の先のカーブの手前に片渡り線を設けて折り返した。
(ト)車体の横に書かれる文字は青電は「KDK」または「Keisei」(不確実)、赤電は3000が「KDK」、3100が「Keisei」だった。

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