横浜線

平成二十年九月二十三日は横浜線開通百周年である。沿線各地の駅前や公民館などでは二十一日から二十三日にかけていろいろな催しがあった。
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横浜線で昭和20年から昭和43年まで蒸気機関車に乗務した元機関士さんの話
タブレットに入れる金属は重いので、走行しながら受け取ると作業服を着ていても腕が赤くなった。渡すとき落とすと駅員が取りに行くが、受け取るとき落とすと列車を止めて取りに行かないとならなかった。
八王子から片倉信号所へは下りののち上りのため石炭をくべてスピードも上げる(人によっては80から90キロ)。防塵マスクをしても煙で見えないことがある。この辺の高さだろうと腕を出した。腕などに当たっても怪我をしないように落ちやすくなっていた。
通過する列車からタブレットを受け取る渦巻き状の装置と、通過する列車にタブレットを渡す2本の板を駅舎の柱からホームに三角形に張り出す装置が昭和50年代まで相模線、八高線でも使われていました。
落とすとブレーキを掛けても500m先に行く。川があって手前ならいいが川の先だと30分はかかった。しかし電車は30分以上あとなので電車は遅れないが、貨物列車は遅れた。
東神奈川を出て東海道本線を乗り越え、大口駅は当時はなかった。菊名のトンネル手前から少し登る。5から6回ブラストするくらいで聞く来た。30から40両の貨車を引いていた。菊名はレベル(水平)になっていた。
その先で下り小机手前は両側が森。それを抜けると水浸しになることがある。電車は駄目だが蒸気機関車は水が10cmなら走れる。シリンダに水が入ると大変。大雨のとき小机で具合が悪い人がいて、貨車を切り離し菊名まで連れて行ってまた小机に戻ったことがある。
菊名で東横線への貨車は東急の単車が入れ替えをした。

沿線に昔から住んでいる大正15年から昭和7年生まれの人たちの対談
菊名駅の東横線渋谷寄りの田中米店の道を入ったところに貨物のホームと日通の倉庫があった。
菊名はよく浸水した。東横線が止まった。
横浜線の大口側に引込み線がありがトンネルがあり、土を貨車で運び鉄道官舎を作った。

イベントの配布資料から連絡線関係を抜粋
明治41年9月23日横浜線開通
大正15年2月14日東横線菊名駅開業 大正15年9月1日横浜線菊名駅開業 昭和2年菊名駅貨物連絡線が開通
昭和41年菊名駅改良準備のため貨物連絡線を撤去
平成7年菊名駅JR駅舎(自動券売機、みどりの窓口、自動改札)完成し東急への駅業務委託終了


鉄道ビクトリアル600号に次の記事がある。同じ号なのに一致していないところがあるが、そのまま記載する。
・戦後は菊名から田園調布まで国鉄との車扱貨物連帯運輸。田園調布の横浜方の東横線山側に側線と荷扱いホーム(写真では国鉄のワム70000が止まっている)
・(1)田園調布の上り本線に貨物列車が到着すると、(2)そのまま入れ替えでバックして山側の引き上げ線へ。(3)機関車を切り離し前へ進み貨物ホームの貨車と連結。(4)上り本線側の引き上げ線へ。(5)下り本線へ。(6)山側引き上げ線の貨車は手で貨物ホームへ。
東横線上りホームのすぐ元住吉方に貨物ホームがあり、そこから引き上げ線が2本あった。
・菊名は昭和44年に(1)線路の嵩上げ(冠水対策)、(2)2面4線の急行対比駅に、(3)貨物扱いを廃止し貨物側線を撤去、(4)連絡線を廃止
・総業当時は不明だが、東急の時代は菊名-田園調布間のみだったと思う。ダイアで定期貨物列車として掲載されたのは戦後だいぶ経ってからである。昭和28年改正で3往復。元住吉には社用品の扱いがあったようだ。昭和42年菊名駅改良工事が行われる前に廃止。
戦後に車扱貨物連帯運輸というのは東急の分割および国鉄の公社化が行われた後の契約、という意味でしょう。昭和3年以降の早い時期から田園調布まで貨物列車があったと読み取れます。田園調布の貨物ホームと引き上げ線は昭和60年頃はまだあった。線路が錆びていて使われてはいなかった。
菊名駅に着発する貨物は東急側に入り東横線の渋谷方に着線した。これは例えば川越駅に到着した川越線の貨物列車から貨車を東武側の貨物扱いホームに入れていたことに似ている。川越駅は全体が東武鉄道の委託であった。しかし川越では列車を牽引してきた国鉄(当時)のディーゼル機関車がそのまま入れ替えをしたところが菊名と異なる。


横浜線の貨物輸送
・横浜線の貨物列車は東神奈川から東高島までの短絡線、または東神奈川の一つ先の海神奈川という貨物駅があった。しかし昭和34年に短絡線と海神奈川駅は廃止され、貨物列車は菊名までとなった。菊名に到着した貨物列車の蒸気機関車は逆向きのまま貨物列車の先頭で八王子方に牽引したらしい。
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