上野から大宮へ(東北線・貨物線編)

平成20年10月


1 「留置」の札を挿した客車
昭和53年に尾久駅の客操の一番奥の客車区の手前あたりに「留置」の厚紙札を挿した客車が1ヶ月くらいだったか止まっていたことがあった。これは貨車にのみ使うものなので、東北線の車窓からも目立った。 その前に入れ替え中の客車が暴走し廃棄物置き場に突っ込み清掃係員が死亡する事故があったため、検察が証拠に押収したのかも知れない。

2 田端操の東端
田端操駅から隅田川貨物駅に向かう線路は東北線の陸橋をくぐった先で収束する。そこに田端操駅第五門、田端操駅第四門と書かれた門がある。前者は閉鎖され使われては居ないが後者はJR東系の日本運輸という駅構内飲料水の倉庫になっている。かつてはこの倉庫は貨物扱ホームで積み下ろしをしたのであろう。

3 田端操から日暮里への連絡線
かつては田端操から先ほどの陸橋の少し南で東北線をくぐる単線のトンネルがあった。道潅山通りを踏み切りで超え日暮里駅で常磐線の上野方に合流していた。おそらく秋葉原駅への貨物列車が利用したのであろう。昭和45年頃までは走っていた。秋葉原へは隅田川貨物駅から常磐線経由で行くこともできた。

4 赤羽駅の話題
赤羽では東北貨物線が平面交差で複々線になり貨物列車の長さを並行に走った後に片方が赤羽線になった。並行していたのは貨物列車が本線での入れ替え時にももう一方の線を用いて通過できるためである。
赤羽駅は川口方からスイッチバックで軍事線跡に繋がっていた。線路は昭和50年あたりまで残っていた。東北貨物線の田端方には鉄道部品の会社への引込み線もあった。かなりの距離だがDD13の前の部分に運転係(操車担当)や構内係を乗せてこの引込み線に向かった。
赤羽には川口方に東北旅客線から東北貨物線への複線の亘り線があった。これは尾久から高崎までの試運転列車が大宮で工場への入出場車を解放と連結するために予め貨物線に移るためのものである。赤羽駅が高架になるときに亘り線は川口駅に移った。

5 川口駅の貨物取り扱い
川口駅はビール工場への引込み線と、鋳物の貨物が多く、かなりの貨車が停車していた。貨物が廃止になったのちに、12系客車を一時改造したパソコン宣伝列車が全国を走り、廃止された川口駅のビール工場と駅ホームの中間あたりに止まった。
パソコン専用列車は首都圏ではあと、保土ヶ谷駅の相模鉄道との貨物連絡線が海老名に移転し廃止されたあとにできた業務用の線にも停車した。新宿にも停車した。

6 蕨駅の引込み線
蕨には日本車両の工場があったが、豊川工場と合併のため移転してしまった。引込み線は撤去されたが、跡地に公団住宅が建設される際に引込み線が復活した。鉄骨やセメントを積んだ貨車が入線した。
蕨と南浦和の間に貨物線・東北線・京浜東北線・浦和電車区を跨ぐ人道橋があった。この橋は日本車両製であったが、外環道路完成のときに撤去されてしまった。
蕨には川口方にもセメント会社への引込み線があった。

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