佐久間元運転士に聞く

平成20年10月26日
佐久間元運転士は横浜機関区の機関助手、弁天橋電車区の運転士を勤め、国鉄民営化でJRに採用されず、闘争団最年長としてがんばっています。「団結まつり」でお話を伺いました。

(私)横浜線の機関士だった人が、タブレットを受け取るとき腕が痛くなった、と言っていました。
(佐久間)機関助手のときは高島の横浜機関区に勤務した。タブレットは最初は腕で受けるが慣れてくると手で受け取った。
(私)東神奈川から高島へ行く線が廃止され、その後は菊名に着いた機関車はバックで走ったそうですが。
(佐久間)八王子のほうから入ったのか。廃止は知らなかった。

(私)C58から後を見るとあまり見えないですが
(佐久間)慣れれば見える。D51もバックで走った。後にシートを着けて石炭のところで止めて風が入らないようにして走った。線路は保線を除いて人はいないという前提だな。
C11やC12はバックで走るようにできていた。しかし石炭が少ないし。あまり好きではなかった。C57、C58も焚き口が自動ではないので好きではなかった。D51、D52は自動だった。
B6というのが矢向にいて南武線を走っていた。
高島を出ると千若という駅があった。

(私)鶴見線の浜川崎に向かって右に富士電機がありますが
(佐久間)右は日本鋼管で、武蔵白石を過ぎで左に富士電機がある。
(私)右にも富士電機があって、専用の踏切があったのですが
(佐久間)武蔵白石の先に一般の踏切があったが、もう一つあったのかなあ
(私)武蔵白石から浜川崎を通らず塩浜に行く高架があって、富士電機の踏切をトラックが通れるように高架が可動橋(写真へ)になっていて、その話を可動橋の専門家に話したら、今でも動かせそうだ、と仰っていましたが
(佐久間)うーん、判らないなあ
(私)弁天橋電車区は貨物は運転しなかったのですか
(佐久間)鶴見線と浜川崎から尻手までの電車だけだった。支線の単車はブレーキが難しかった。
(私)自動空気ブレーキは1両だとすぐ抜けるからですか
(佐久間)ちょっと回すと抜け過ぎてまた戻した。

佐久間さんは明日から国会前でハンストをするそうです。お体に気をつけてがんばってください。


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