前回に続き平成16年10月、都電の大塚営業所の元運転手さん2人にお話を伺いました。
- コントローラに毛糸のハンドルカバーはかけてはいけなかった。素手で扱うのが原則だった。コントローラが壊れて外すとき指を挟んで怪我をしたことがある。軍手を持っていなければいけないと思った。
- 空気弁式の遮断器は昔はなかった。切れると手を頭の上に持っていった。
- (今までに一番大変だったのは、という質問に狩野川台風が来て浸水したことを挙げて)台風で浸水したとき車庫で台車と車体をはずし、電動機だけ工場でコイルを巻き替えた。
- (どこを運転するのが好きだったかという質問に)大塚5丁目(山を陸軍が爆破し切り開いた)と岩崎庭園が左に見えるところがよかった。
(もう1人の運転手さん)厩橋を渡るところがよかった。
- 伝通院はラッシュ対策、遅れると春日町より近い伝通院。あと30分残ったとき、もっと乗りたい人と上がりたい人がいた。
6時間30分以上、実乗務すると超勤手当てが出た。この運転手は10分遅れる、3台続くと判っていた。錦糸町の次に御徒町を入れた。時間があれば、厩橋は早稲田の車があるので御徒町で折り返す。しかし早い人だと錦糸町が先に入ってしまい御徒町の稼ぎが少なく文句をいう人がいた。錦糸町2回と御徒町1回が基本。所用時間が40分、46分、50分とだんだん延びていった。
17は伝通院、神保町、八重洲で折り返し。でも伝通院で折り返しが学校が多く多かった。
- (最高速度)法律では35km/h。8000型は155hpなので50km/h出し本局のパトカーにつかまった。
- (電気ブレーキについて)空気ブレーキで間に合わないとコントローラを制動に入れた。8000は電気ブレーキを常用していた。速いから制動距離が長かった。
- 仲町護国寺間の銀杏の葉っぱ拾いを職員がやった。護国寺の電停に止まっている電車に追突はしょっちゅうだった。
- ワイパー手動。3000はワイパーがなく唾をつけた。
- トラバーサーを止めるときは、逆でパチ、パチと入れ止めた。
- 操車係はダイヤが引けないと1人前ではなかった。ダイヤは1分刻み。17は日ノ出町にいた。池袋は(-調査中-)がいた。
- 20番例外が来ると日ノ出町から池袋に電話を掛け、どっちの番線に入れろと指示した。
- 1組50人掛ける6で300人、150組。偶数奇数で16と17を分けた。
- 中廃は中休がなく通しという意味。
- 特勤は、病弱とか埼玉に引っ越したなど。特勤も無理な人は清掃等。
- 先頭の次が公休、その次が終車なので48時間まるまるあった。終戦後買い出しに行った。
- 補助職は、職員のフトンひきをしたり風呂洗いをした。
- 貸切の行き(または帰り)は営業所の路線外は営業しない。管轄内は営業するとかしないとか出発の時に指示があった。
- (どの車両が好きだったか、の質問に)8000型は嫌だった。
(もう一人の運転手さん)7001で試験を受けたので7001。7051以降はどっしりして安心感があった。視界もよかった。5501を運転したかった。
- 16に3000、17に7000と8000を主に割り当てた。
- 池袋御徒町は17の臨時。しかしお二人とも乗務したことがないし、日ノ出町の操車をしていたときも、御徒町の記憶はないそうです。
(ちなみに私は池袋で20番臨時上野広小路行きを待っていて17番御徒町行きを1回、上野広小路で1回見たことがあります。数寄屋橋が春日町に短縮された後に新設されたのかも知れませんね。)
都電ページへ戻る