平成16年2月、都電の大塚営業所の元運転手さん2人をゲストにお招きし、お話を伺いました。以下はそのときの記録です。青字は私の補足説明です。
- 営業所は電車部、車庫事務室は技術部の所属。大塚は営業所と車庫事務室が別の建物だが、一つの部屋に同居している車庫もあった。
- 営業所は乗務員と職員がいて、乗務員は7組に分かれていた。職員は甲乙の2班で1日おきの24時間勤務。
- 大塚は乗務員が350人、職員が50人、うち事務は3人。乗務員は転勤なし、職員はあった。
- 池袋の発車番線は2つとも17の発着だった。17が短縮になり本数も減ったため駅から見て右側は20例外になった。1つの番線に2台縦に入れるときは、操車係が指を2本出して(じゃんけんのチョキ)合図した。
- 日ノ出町の派出所は昼食を食べる間、電車を止めたもので深夜は1台も留置しなかった、遅れたとき日ノ出町から池袋に車両を出すため日ノ出町に入れておいて乗務員は次の電車で大塚に戻ることもした、勤務が終わるときは仲町で折り返して大塚に戻った。
- 20例外は土日に運転した。
(私の記憶では20例外池袋行きは平日も走っていました。17番が数寄屋橋から春日町に短縮になった後に変更になったのでしょうか。)
- 日ノ出町には大塚から切符係が来ていて切符が少なくなったときは切符を受け取り現金を渡していた、1往復で半分以上なくなると次の往復でなくなるので車掌が派出所によるが、うっかりそのまま発車することがあり、普通は大塚坂下町で気付くのに護国寺まで行ってしまい乗客に車掌がいないと言われ気付いたことがあった。
- 車両工場への回送は、(考えながら)大塚車庫、春日町、神田橋、日比谷、三田、大門、東京港口 かな、大塚仲町で曲がって神明町の方を通って行った人もいるのかなあ。
- 事故時の連絡方法について、緊急電話を使うこともあったが民家の電話を借用することが多かった、緊急電話はいたずらされるといけないので目立たないようになっていて本郷3丁目など主だった交差点にあった。
(三田車庫の元運転士さんとの話の違いを考察しました)
(1)大塚で運転士歴は8年でその後トラバー、操車を担当された方の話なので緊急電話を知っていた
(2)三田廃止前は設置されていなかったがその後、信号塔がかなり自動化され緊急電話が電柱に設置された。
- 運転手になるとき営業所に配属後、お師匠さんに1ヶ月習う
- トラバーはブレーキが付いていないので、電気制動で止める。逆転で走行に入れる。
- 通常はトラバー係が電車を発車線まで移動するが間接制御は人気があるので運転士がトラバーへの移動を自主的にやった、大塚一番奥の屋根のないところに間接制御を入れておくと雨のときも運転士が運転してくれた、発車線に4台並べるのは忙しかった。
- 電気ブレーキはパラのほうがよく利いた。パラはパラレルだ。
(パラ即ち高速のときは利くがシリースで走るような低速ではあまり利かないという意味だと思います)
- 交通局がパトカーを営業所に配置してから、それまでは事故のときは次の電車で来ていたのが迅速に対応できるようになった、2名で来るので1名が代わりに電車を運転した、大塚は神明町も受け持っていた。
(昔、柳島かどこかの運転士に都電は最高何キロ出るか聞いたとき70ではきかないだろう、パトカーに捕まった人がいるから、と言われました。警視庁のパトカーかと思っていたのですが交通局のかも知れないですね。)
- (70以上出るかとの質問に)50ではないか。
(三田の元運転手にご子息さんから聞いてもらったところ、現役時代に37番の御成門~日比谷公園前間で45~50kmの速度を出した、本線(三田では1番をこう呼んでいた)では高速度運転(35km以上)は難しかったが、37番の上記区間だけは一番出せた区間だった、パトカーは配車されてなく、本局?から必要時は来ていたらしい、最高速度を出せたのは8000形で、元々少ない7000はそんなに出せなかったみたいで、最高速度も地形・車種などにより異なるが、良いとこ50kmが限度では?”と云ってますとのことでした。一方、荒川車庫でしばらく前まで嘱託運転士として6152号などに乗務していた方が80キロ出して警察に捕まったとある都電ファンに話されたこともあり、本当の数値は不明)
- 直接制御車は100馬力が2台で200馬力、間接制御車は150馬力が2台で300馬力。
(正しくは直接制御は1両で100馬力、間接制御は150馬力。都電の場合、高性能車はHP、その他はKWで換算が大変で、私が錦糸堀で資料を見せてもらったときもそうでした。30年前なので1台あたりか1両あたりか記憶が薄れたということはあっても高性能車以外も馬力での数字を運転士さんが認識していたということは貴重な証言ですね。)
- 3000でモータが大きいものは無かった。
(速い3000があったという都電ファンは多い)
- 売上金の不正行為を防ぐために仕事を終えると必ず車庫内の風呂に入らなければならなかった。
- 前照灯は、歩行者や車に電車の存在を知らせる程度の明るさだった。折り返し地でスイッチの切り替えを忘れ、尾灯と前照灯が逆になっていることがときどきあった。
(車内灯、前照灯、尾灯は全体で1つのスイッチだったので、夕立で薄暗くなると車内灯を点灯させるため前照灯、尾灯も点灯してしまいました。このとき、前照灯と尾灯を逆転させた車輛が多かったので日中は意図的に逆転させていたのかと思っていましたが、逆転を忘れただけだったことが判った。)
- 1組は4班で運転士車掌合わせて10名、1班が5:00だと2班は5:10、3班は5:20、4班は5:30
- 職員の採用は縁故だった
(縁故と言っても誰かの紹介があればいいので、真面目に勤務しなければ紹介者の顔を潰すということで、いい制度かも知れないですね。)
- 都電存続のため線路を道路の外側に移す提案を労組が何回も行ったが商店の反対があった
- 本局の人が乗客を装い接客態度がいいと1枚渡され、確か4枚だか集まると昇給が数ヶ月早まった。
- ドアが手動だったとき、すいているときは停車前に反動で開けた。
- 毎週日曜が休みだと不公平になるため月に1回同じ勤務を繰り返し1日ずらしていた。
- 走行キロと売り上げによる付加給の話もでました。バスで混んでいるのに次々に乗車させる運転士がいると、「あ、稼いでいるんだな」と今でも思いながら乗車する。
- 都電は停止距離が自動車より長いのに知らない自動車運転手が多い。
お二人の元運転手さん、ほんとうにありがとうございました。
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