客貨車区盛衰記
平成19年10月
国鉄大船工場記念誌に、検車区と車電区の合併で蓄電池の修理などが大船工場に移転になったことが書かれていた。電車と気動車の車体に書かれた符号が配置区を示すのに対し、客車の符号が常備駅を示すことは以前述べたが、客車は検車区と車電区の2つに分かれていたことが原因でははないかと思い、客貨車区の歴史を調査した。
- 検車所と列車電灯所の誕生
客車と貨車の検査修繕は機関庫又は工場で実施していたが、明治39年に私鉄を買収し車両数が増えたため、検車所と列車電灯所が誕生した。当時の職種は、
検車所では検車所主任、検車手、同見習、検車助手、同見習、客車掃除夫、職工長、職工、同手伝
列車電灯所では列車電灯所主任、電灯検査手、同見習、電灯検査助手、同見習、職工長、職工、同手伝
があった。職工には旋盤工、鍛冶工、組立工、仕上工がある。
その後、扇風機、蓄電池、一部の車両では電気暖房も装備されてきたため、列車電灯所は昭和3年に車電所と改称した。このときの職種は
車電所主任、同助手、事務掛、技術掛、車電手、同助手、同見習、技工長、技工、同見習、倉庫手、雑役手
- 検車区と車電区
検車所と車電所は昭和3年に検車区と車電区に改称された。職種は
検車区は検車区長、同助役、検車掛、検車手
車電区は車電区長、同助役、車電掛、車電手
掛は雇員、手は傭員に統一した。従来検車所等の責任者の名称が主任であり、外部からは駅長の配下と思われるため区長と改称した。都電の営業所長と主任の関係に似ている。
- 日華事変
昭和12年の日華事変の勃発により、各鉄道局の客車の一部を供出し運輸局で指令し軍事輸送に充てた。工場への入場は運転上危険がないときは原常備駅所管の検車区に回送し、ここで入場手続きをして車号と入場事由を鉄道局と運輸局に電報した。
昭和20年1月、検車区の検車掛、検車手を客貨車検査掛、客貨車掛と改称。
- 客貨車区の誕生
昭和24年、日本国有鉄道発足。従来の運転局所管の検車、電気局所管の車電、工作局所管の鉄道工場が合併し車両局になった。
昭和26年、検車区と車電区が合併し客貨車区。客貨を分離した客車区または貨車区も誕生した。客貨車掛または車電掛は車両掛に、車電手は車両手になった。職種は
区長、助役、事務掛、技術掛、客貨車検査掛、車両掛、車両手、技工長、技工、清掃手
昭和27年、車両局を廃止。鉄道工場は工作局、検査修繕と車電は運転局で国鉄民営化まで続く。
- 客貨車区の合併
機関車、近距離電車は機関区と電車区、客車は客貨車区(または客車区)が担当していた。しかし戦後の動力分散化により、機関区と客貨車区を合併した運転区があちこちに誕生した。組織が大きくなると運転所と称し所長、科長、助役という組織になった。この場合でも旧機関区の部分は運転区(所)の構内であり区(所)の構内運転係が操車し、客車操車場の部分は駅(または操車場)の構内で運転係(操車担当)が担当した。
なお、機関区や運転区(所)の構内運転係の旧称は誘導掛、駅の運転係(操車担当)の旧称は操車掛である。名称を変更した理由の一つに労働問題があると想像している。誘導掛と操車掛は助役の下の一般職員だが、運転という名称を付けることにより差別化したのではないか。もっとも国鉄末期には助役が操車をすることも多かった。
機関区(電車区、気動車区を含む)と客貨車区(客車区、貨車区を含む)の合併したものを運転区(所)と称し、機関区と電車区が合併しても機関区である。私の知る限り唯一の例外が国府津運転所である。東海道線普通電車が配置されている国府津は長いこと機関区であったが確か国鉄末期のころ国府津運転所となった。
- 新規の運転区(所)
合併が一段落すると、新規に運転区(所)を建設するようになった。初期のころは向日町操車場構内の向日町運転所のように駅と構内の関係を保っていたが、後にすべてが運転区(所)の構内となった。駅と運転区(所)の合併と言える。しかし本線との出入部には信号場を形式的に設けて一応駅の機能とは分けていた。
- 客貨車区の消滅
国鉄分割により貨物はJR貨物に移ったため、客貨車区という名称は消滅した。JR各社は残った客車区や貨車区もその後名称を変え、今ではJR貨物に貨車区が一つあるだけだという。私も民営化された後はあまり興味がない。民間会社が支店を分割したり名称を変えたからといって興味は持てない。
唯一興味がある話題は宮原客車区、宮原機関区、宮原電車区、宮原操車場の合併である。従来、駅(操車場)を合併に含めることはなかった。新規の運転区(所)は最初から駅を合併していると言えるのだが。
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