都電のいる東京風景
城東電車の思い出
平成17年5月21日から隔週5回に亘り江東文化センター講座『都電のいる東京風景・城東電車の思い出』が開催された。
受講者は、ご年配の方々、中年(10名程度)、若い人(10名程度)で、そのうち都電ファンが5名程度、江東区内の方が8割、合計40名で約半数はご婦人であった。参加者の顔ぶれから、都電が住民に親しまれていたことがよく判る。
第1回5月21日「馬車鉄道から市電へ」
会場・江東文化センター、14時から15時30分、講師・東京学芸大学名誉教授青木栄一氏
受講者37名程度
- 馬車鉄道。馬は病気になる(怖いのは伝染病)、多数の予備の馬が必要(車両300台に対し馬2000頭)、路上の糞尿を処理する者が必要。
- 電車実用化のためには、ポール、吊掛式の発明を待たなければならなかった。
- 蒸気鉄道との競争。電車は、安い運賃と運転本数が多いのが特長。
- 主要都市の市内電車市有化。市内電車は電気供給事業と併せて都市の財源となった。
- 東京市による買収。1911年、192.318Km、1054両(うちボギー車131両)。営業所は三田、青山、新宿、本所(江東橋の近くか?1923年錦糸堀に移転)。
- 関東大震災。電気局本庁舎、営業所4、車庫5、電車777両を全焼。
- 財政悪化始まる。大震災による市内人口の郊外への拡散。省線電車の市内部開業東京地下鉄道の開業。
- 電車の変遷。ボギー車の増加。低床式電車、電動機の小型化で車輪直径を小さくし(800mm弱-->700mm弱)床面を低くして乗客のステップ昇降の負担を軽減(900mm-->800mm、3000型、1923年)。
- 半鋼製車。台枠と車体外板は鋼製。車内の内張り、屋根、床、扉などは木製。東京市電の半鋼製車は遅く1927年まで木造車を製造、1930年の5000型が最初、続いて1932年木造車鋼体化改造の1000型。
- 陸上事業調整法。王子電軌、城東電軌、東急玉川線の渋谷以東の買収。西武鉄道軌道線は委託経営。堤氏の政治力で、買収ではなく委託に落ち着いた。ということは路面電車は価値があった。
第2回6月4日「黄金期から衰退の時代へ」
会場・江東文化センター、14時から15時30分、講師・青木氏
受講者37名程度
- 終戦直後の東京都電。戦災による大きな被害。カッコ内は雑誌Romance Carの戦災車番号による戦災電車数を青木氏が集計、下記の月日以外の小規模の空襲被害を含む。
3月10日、城東(37)、錦糸堀(62)、柳島(60)、三ノ輪(23)、南千住(37)
4月13日、駒込(37)、神明町(11)、大塚(58)、巣鴨(79)
5月25日、青山(121)、大久保および新宿(33)、早稲田(30)、三田(10)、杉並(1)、目黒(2)
合計601両で、昭和18年現在の990両の60.8%。これほど被害を受けたのは、あとは井の頭線のみ。
被害の他に資材不足と酷使で使用不能車続出。運転車数と運転キロは通常の約20%。
- 復興時代から高度経済成長期へ。全体の交通量の増大、高速電車の増加率が大きく、都電は戦前の2倍強。郊外の拡大、目黒五反田高田馬場で乗り換える人が増えた。定期客比率の増大、ラッシュアワーの激化。交通渋滞の顕在化。路面電車の赤字の増大、とくに昭和36年度より赤字が顕在化。
- 路面電車は道路交通の邪魔物?
「路面電車はその運行方式、速度から見て路面交通における異質的な存在であり、最近における道路整備、交通規制の強化をもってしても、今後改善の余地は少ないと予想される」(運輸省都市交通審議会、昭和34年4月の中間報告)
「東京オリンピックを控えての自動車優先主義(アメリカの傾向が世界標準)」(青木氏)
「東京都営および横浜市営路面電車の撤去に着工するものとし、撤去費、現状回復に対する起債を考慮する」(37年度首都圏整備事業計画策定方針)
- 世界的な視野で路面電車政策を考えると(英米型、中欧型は青木氏が取りあえず付けた名称)
- 英米型
路面電車を廃止し、大量輸送の高速鉄道(地下鉄)と少量輸送のバスに分割。1936年PCCカーが開発され1950年代までに6000両が生産されたが、道路・軌道に手を加えず、路面電車の劣勢を止められなかった。
- 中欧型
路面電車を中距離輸送機関として意義付ける。
路面電車を高性能化。連接車と高出力、電車のデザインを近代化、併用軌道の敷石撤去で自動車の進入を排除。交差点は地下化、都心部は交差点が多いのですべて地下に(浅く、小断面、経済的に建設)。
1950年代から西ドイツで発展し、ベネルックス、オーストリア、スイスなどで普及。ライトレールに発展。1980年代よりアメリカ、イギリス、フランスなどでライトレールの導入がさかんとなる。
- 日本における路面電車改良の試み
1950年代にPCCカーの技術を導入して電車の軽量化、高性能化を模索(1950年代はアメリカからしか情報が入ってこなかった)。カルダン駆動、出力強化、間接制御、大型化(連接車)、ドラムブレーキ。
少数の例外設計車は現場で不評判、京都、横浜は直接制御に戻した。
- 都電廃止
戦後の都電は、時々単年度の欠損を出したことはあったが、昭和36年度より継続的な赤字、昭和42年1月財政再建団体指定を受ける。
昭和42年12月10日(第1次)から昭和47年11月12日(第8次)まで廃止。
-
路面電車の復権
1980年代より、人と環境にやさしい路面電車に社会的関心。いったん路面電車を廃止したアメリカ、イギリス、フランスなどもLRTの復活。補助金制度の運用が必要(アメリカは大きい。日本はない。)
第3回6月18日「城東電車と江東の都電」
会場・江東文化センター、14時から15時30分、講師・青木氏
受講者37名程度
- 江東地区の自然環境。関東大震災の被害が大きかったため、その後、地層調査が行われた。
地球の寒冷化、温暖化により海岸線の後退と前進。古利根川、古荒川、多摩川による堆積。第三紀層の上に基底礫岩、砂泥層、泥層、砂層の順に堆積。現在の荒川付近で最も厚く、数十メートルに達する。地震に弱い、地盤沈下が起きる。
- 江東地区の都市化
- 深川地区。明暦の大火(1657年)後、材木問屋を集中移転、深川木場が繁栄。町屋が発達。
明治11年、深川区となる。明治8年官営セメント工場立地、以後水路沿岸に軽工業の立地が進む。
関東大震災の被害甚大。復興事業で土地区画整理進展。道路、運河の整理。
- 城東地区。江戸時代は農村。明治22年市町村制の実施により亀戸村、大島村、砂村。明治期に紡績、製材工場の進出、大正・昭和初期に鉄鋼、機械、造船などの重工業の立地が進む。
昭和7年東京市に編入、城東区となる。
- 現江東区内の東京市電
- 市営化当時(明治44.8.1):
(浅草橋)-両国-亀沢町<緑3丁目>、
業平橋-亀沢町-亀住町-(茅場町)
- 明治44~大正15年の開業:
亀沢町-江東橋-錦糸堀、
(新大橋)-森下町-猿江裏町<住吉町>-錦糸堀、
門前仲町-沢海橋、門前仲町-(月島8丁目)
- 昭和2年以降の開業:
猿江裏町-東陽公園、
(石原町)-亀戸天神橋
- 城東電気軌道、明治43年、軌道敷設出願、本多貞次郎(京成電軌を起した人)ほか23名
「本軌道ハ東京鉄道株式会社特許線終点本所錦糸堀停車場附近ニ起リ亀戸町ヲ通過シ千葉県下行徳手前江戸川渡船場附近ニ至モノニシテ沿線中小松川及亀戸町ノ如キハ近来諸工場之続々設立ヲ見ルニ至リ人口著シク増加シ将来益発展シツツアル状況ニ有リ該区間ニ於ケル交通機関ノ施設ハ一般ニ渇望スル所ニシテ之カ軌道完成ノ暁ニ於テハ沿道部落ハ勿論千葉方面ト東京市トノ連絡ヲ告ケ運輸交通ニ多大之便益ヲ与フルノミナラス地方産業ノ発展一般商業ノ振興ニ資スル処亦鮮ナカラスト信ス」(東京府から内務省への福伸、「江東区史」中巻より青木氏が引用)
-
1911年に荒川放水路計画が出現したのは、城東電気軌道にとって不運であった。鉄橋やトンネルは、大きな費用がかかるが収入は増えない。
- 城東電気軌道は1918年(大正7年)以降黒字続きで高配当であった。大正14年と昭和元年の2年で乗客数が計1割減少し、昭和5年から8年の3年間で計4割減少、その後増加に転じている。減少期でも黒字であった。
以下は毎回の講座終了後に、青木先生にした質問です。
- 800型は戦時中に製造したため700型を簡素にしたそうですが、簡素な作りでしたか(青木氏が終戦直後の省線は天井板がないなど粗末だった話をされたので)。また勾配に弱いので15番専用にしたと聞きましたが。
(答)乗ってみて粗末だとは感じなかった。普通の作りだった。700型は四谷に坂があるし、勾配に弱いということはないのではないか。
- 昭和34年に都電廃止の答申が出たが8000型はその前に作られたので、よく都電廃止を前提に作ったと言われるが間違いで、今の京浜東北線と同じで寿命を短い車輌を作るという、進んだ技術だったのでは。
(答)8000型が進んだ技術とは言えないが。経済的に作ったということでは。
- 38番は残しておけばよかったのでは。今でもバスはかなり混む。
(答)カーブが急だし、難しいのでは。
青木先生、どうもありがとうございました。青木氏と第4回講師の吉川文夫氏は同じ小学校で同学年だそうです。
第4回7月2日「城東電車の軌道跡探検」
14時亀戸駅東口集合、16時東陽町駅附近解散、講師・吉川文夫氏。
錦糸堀電車営業所の元運転手さんが、いっしょに解説してくださいました。
参加者30名強。
- 都電は急には曲がれない。カーブが緩やかなことを確かめよう。
- 竪川橋、希望者のみ下の銘板を見た。ほとんど見えない。橋の上には車輪の展示。
- 明治通りに合流地点、信号はあったのかという質問に、元運転手さん「信号はなく、交通を確認して曲がった」
- 小名木川駅跡、東武がここにターミナルを作る計画だったが、浅草に作った(吉川氏)。
- 境川公園前の橋は、大正時代に城東電気軌道が架けた、という解説。公園で休憩。ご婦人の参加者3名ほどが、終わりは何時になるか、休まず早く行ったほうがいいのでは、皆が疲れるから、と区の職員に言っていたが、予定通り到着する、ということで休憩を取った。
- 軌道跡を少し南に外れ仙気稲荷、古くは疝気稲荷と言った、今は疝気という言葉を知らない人が多い(吉川さんが鉄道以外の解説もされました)。
- 稲荷から軌道跡に戻り汽車会社横を歩いた。
- 車輪展示、本物の車輪が展示されている。
- お手洗いに阪堺電気軌道らしき絵。都電ではないので書き直すよう吉川氏が区役所に言ったが、経費がかかるため駄目だったそうです。方向幕の字がぼかされていてどこの電車か判らないようになっていますが、吉川さんが見たのですぐ判ってしまいました。
- 元運転手さんは昭和42年に区役所に転属されました。歩く途中でのお話をまとめました。
- (直接式のカノピーは、前後の運転台の片方に付いていたのですか、との質問に)両方に付いていた。両方入れて走行した。入庫したあとは両方切ることになっていたが、ビューゲルを下げるし、そのまま入れていた。
この件は吉川氏にも質問したところ、少し考えられて、1つですよ、と回答をいただいた。元運転手さんは昭和42年に区役所に移られているので、この時期、ほとんど間接式になっていたと思われます。
- (竪川橋に「一旦停止」と書かれている件を質問したが、ご存知なかった。昭和42年当時は書かれていなかったのかも知れない。)
- (須田町行きの最終は、須田町到着後大手町日本橋を回って錦糸堀に戻ったのですか)そのまま29番で戻った。(展示会の赤く塗られたスターフは何だったのでしょうか。朝、須田町まで行き、錦糸町駅行きになった可能性が高いですね。小さな7は7時という意味では)
- 始発前にお迎え電車を錦糸堀から境川まで走らせた。運転する人は錦糸堀の3階に宿泊した。
- 境川に配属されても数年で錦糸堀に戻った。家が近いなど希望者はずっと境川だった。
- 28番は錦糸堀のドル箱だった。
- トロコンを2回進んでしまい、分岐が違う方向になってしまったときは、バールで動かした。(モータで動くのにバールで簡単に動かせるのですか)動かせた。
- (車庫の人は「さかえがわ」と言っていましたが、運転手さんと車掌さんはどっちでしたか、との質問に少し考えて)「さかいがわ」だったなあ。
- (車庫は営業所とは別に技術部所属と前に大塚の元運転手さんがおっしゃていたがそうなのですか)営業所の所長が管理していたかも知れないし、どうだったのかなあ。
- (砂箱は空転を止めるためですか)表向きはそういうことになっていたが、空転にはほとんど使わなかった。車内で嘔吐した人がいると砂をかけた。(砂を掃くときれいになるのですか)まあ、きれいになったかな。(車庫で掃くのですか)混んでいるので走行中は掃かなかった。
砂箱なんてよく知っているね。あと車止めも用意していた。坂で前が事故でつかえているようなときは、車止めをつかうことになっていた。ブレーキをいっぱいに入れておけばいいがゆるいと動き出すことがあった。
- 専用軌道の終端にて。地図によると洲崎の球場は江東運転試験センターの位置だろう、とお話がありました。あと電車唱歌の話、洲崎という地名はなくなった、というお話があり、充実した2時間を終えました。
吉川さん、元運転手さん、貴重なお話を本当にありがとうございました。
第5回7月16日「都電荒川線貸切トークショー」
14時早稲田発の7000型貸切電車で三ノ輪橋まで。ゲスト、泉麻人さんと町田忍さん
参加者30名強
- 車輌向って右側の中出口直後にゲスト2人が座り、マイクで話し合った。内容はそれほどではなく、私が話せばあの10倍は内容があり面白く話せた。原因は座って話したことと2人で話したことである。交代で話を主導し、立って話せばよかった。しかし参加者は喜んでいた。ゲストの写真を取る人も多く、ゲストの近くで立って話を聞く人もいて、おかげで高齢者優先で20名までの座席に私も一番後の長椅子に座って行った。
- 錦糸堀の元運転手さんは、本日は用があり不参加だった。スターフのホームページを印刷してきたので、これを渡して質問しようと思っていたのに残念だった。
- 自動砂撒き装置が装備されているのに砂箱があった。前回の元運転手さんの話にあった嘔吐対策であることが明らかになった。
- 三ノ輪橋到着後、渋谷方面に詳しそうだった泉さんに、渋谷のループ線が2線に分かれる理由を尋ねたがご存知なかった。
- まず旧王電の看板があったビルまで行き、折り返して都電と平行に走る商店街の終端まで行き、公園で解散。東京人に泉さんが投稿した件、町田さんのポロシャツは戦前の海軍ののぼりの生地を購入し製作した、などの話が出た。
- 私が都電に乗ったのは、平成16年2月に大塚の元運転手さんと荒川遊園に行った帰り以来であり、その前は8年近く乗っていない。私の関心事は昔の都電である。前回乗ったとき、7000型の走行音が昔と変わらなかったのが懐かしかった。同じ台車を使っているのだから当然ではあるが。
「都電のいる東京風景」を企画した江東区文化センターに皆さん、どうもありがとうございました。
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