元国労書記に聞く

鴨哲登志さんという元国労書記と立ち話をしました。鴨さんは国労の書記局に就職し、その後社会党専従などを経て、習志野市議を務め、昨年は習志野市長選に立候補し善戦したが惜しくも敗れました。

<私>千葉に勤務されていたのですか
<鴨さん>東京駅の国労本部で最初は客貨車区を担当していました
<私>客貨車区は検修係などいくつかありましたよね
<鴨さん>3つくらいあったかな。徒弟制度で一人の腕のいい人がいて、叩くだけで状態が判った。まとまっていたから組織化がよくできた
<私>昔、両国客貨車支区というのがあったが、本区は・・
<鴨さん>新小岩かな。あそこは人が多かった
<私>新小岩操駅があったし
<鴨さん>工場があった。工場は客貨車区の上だから
<私>あ、両国は錦糸町客車区の支区だった
<鴨さん>錦糸町は判らない。新小岩の人で今でも習志野に住んでいる人が多い
<私>津田沼電車区より多いですか
<鴨さん>津田沼より幕張のほうが大きい
<私>幕張電車区は広いですね。千葉気動車区より多いですか
<鴨さん>新小岩のほうが多い

私が小学校5年のときに臨海学校で岩井に行った。両国から蒸気機関車が牽引した。客車の常備駅は錦糸町で両国は始発駅兼貨物駅であった。その両国でも客車の検査を行ったのか(上野駅には常備客車や検査線はないが上野客車区があり東京駅にも品川客車区東京客車支区があったのと同様の役割をしていたのか)、その逆に貨車の検修を錦糸町でもしていたのか、などを聞きたかったが鴨さんが就職する前の話のようだった。

<私>印象に残った客貨車区は
<鴨さん>名古屋、札幌
<私>札幌客貨車区は札幌運転区とは別なんですよね
<鴨さん>苗穂も上の人といっしょに訪問した
<私>苗穂は工場がありましたよね
<鴨さん>それとは別に客貨車区もあった

鴨さんは社会党左派だったので、そういうところの客貨車区が印象に残ったのかも知れないですね。私は千葉鉄道管理局管内では佐倉客貨車区が一番好きでした。
「付録、佐倉駅常備の客車」
佐倉駅の今は電留線のあるところに、かつては佐倉客貨車区の検修庫と留置線があった。従来客車と貨車が泊まっていたが後に12系客車が6両来た。しばらくして従来客車はいなくなった。あるとき貨車がいなくなった。佐倉駅のホームにいた助役に聞くと、陸橋の手前で(交番検査を)行っていると、親切に教えてくれた。千葉鉄道管理局のことを「千葉管」と呼んでいた。
検修庫のずっと手前の下りに向かい左側に貨車ヤードがあり、その上を道路が陸橋で横断しているがその手前であった。佐倉駅は一番左のホームは出入り口に面していて(島式のホームではないという意味)、その成田側の左面は土を盛った斜めになっていて貨車が何両も留置してあった。その左にも仕分け線みたいな線が何本もあった。
12系は6両が一つの単位でそのうち1両がスハフ12というディーゼルエンジンで冷暖房の発電をする緩急車であった。スハフ12を検査しているときは全体が使えないため、後に9両を佐倉駅常備にしてそのうち2両をスハフ12にした。
あるとき12系がいなくなった。佐倉駅のホームの助役に聞いたところ、関西の竜華操車場に移動したとのことだった。竜華操車場ものちに廃止された。
佐倉駅は右側に佐倉機関区もあったがこれも廃止され、島式ホームが二面あるだけの通勤客だけの駅になってしまった。

たまたま平成6年頃、都電の38系統の跡を調べていたところ、小名木川駅(貨物駅)の構内で地元と共催で出店など催し物をしていた。私も立ち寄りJR貨物の人に話を聞いたところ佐倉機関区から応援に来ているとのことだった。新小岩の工場は新鶴見(実際は川崎貨物。私の聞き違いかも知れない)に移るという話を聞いた。


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