川崎の路面電車と鉄道貨物
平成十七年頃に作成し、平成二十一年九月に写真及び「道路の反対側の線路」を追加
川崎は鉄道貨物の密集地であったが、今はだいぶ少なくなってしまった。更にその前は路面電車が走っていて、路面電車の線路を貨物が走っていた。それらの調査結果をここにまとめた。
- 線路跡の探索
川崎駅から浜川崎まで道路を走った川崎市電は、左折して塩浜まで専用軌道を走った。
産業道路の海岸側に臨港消防署の交差点まで今でも線路跡が緑地として残っている。
交差点を右折した後は、貨物の高架をくぐり水江町に向う道路の左端に線路跡が続く。
この辺りは観音川跡の細長い緑道もあるため、塩浜から浜川崎と逆方向に探索するときは線路跡と観音川跡を混同しないように注意が必要である。
水江町への貨物線と平面交差した辺りで左に折れ、下水処理場に沿って線路跡が工事用資材置き場としてはっきり残っている。
先へ進むと塩浜のバス停に着く。市電のかつての終点で、ここから先は京急である。東京電力の変電所に2本の門形(写真へ)の鉄塔がある。門形の足の間を線路が走っていた。1本には昭和35年9月と書かれている。
線路跡はそのまま続き、やがて左折する。この辺りの線路跡は払い下げられたため工場になっているが頭上の送電線を目印にすれば判る。やがて川崎貨物駅の線路が見え、向こう側に京急の小島新田駅が見える。
- 貨物輸送
浜川崎駅から日本鋼管の構内専用線を借用し、日本鋼管正門付近で市電に合流し塩浜方面に貨物列車を運行していた。しかし日本鋼管の操業に支障がある為、浜川崎の少し先で市電に合流するようにした。軌間1435mmの市電線路の内側に1067mmのレールを1本引き、ここに貨物列車を走らせた。川崎市は線路を賃貸しただけで、国鉄の貨物列車が乗り入れた。
東洋硝子前の交差点付近では3つに分岐していた。左折すると市電の塩浜、真ん中が東洋硝子、右が水江町である。
塩浜では千鳥町方面の市営埠頭にも分岐していた。同じく塩浜で京急に貨物線の線路が接続されていた。1067mmの線路は小島新田の日本冶金、川崎大師の味の素までつながっていた。味の素までの線路が廃止されたのは5年ほど前で、惜しまれる。
- 市電の短縮と市電貨物列車の廃止
塩浜に貨物操車場が建設され、浜川崎から塩浜まで単線の線路が、市電の複線のうち一方を利用して引かれた。池上新田で右折した市電と交差するため、市電は池上新田までに短縮され、線路も前述のように単線になった。貨物列車も廃止された。
市電はその数年後に全廃された。
- 海岸電気軌道
古くは、京急の子会社の海岸電気軌道が、総持寺前から川崎大師まで路面電車を走らせていた。その後、鶴見臨海鉄道に吸収され、更に鶴見臨海鉄道が旅客営業を開始するため廃止になった。鶴見臨海鉄道はその後、国鉄鶴見線となった。
京急の川崎大師から産業道路までと、川崎市電の浜川崎から池上新田までは、海岸電気軌道の線路跡である。
- 塩浜操駅
塩浜操駅は、昭和50年に大きく改良された。
(1)ハンプから突放された貨車を自動で停車させるカーリターダーが装備されガチャーンガチャーンという音が響き渡るようになった。
(2)鶴見線内発着貨物は従来の浜川崎から塩浜操で扱うようになり、浜川崎を短絡する単線の高架橋が作られた。従来、浜川崎が手狭なため川崎と浜川崎の中間に小田操車場があったが、小田操車場と川崎小田操車場間の線路を廃止した。
(3)東京貨物ターミナルから塩浜操を経由して鶴見に至る複線が作られた。市電短縮の原因となった地平の単線はこのとき高架の複線になった。当時も高架か地下にして市電と立体交差する案があったらしいが、日中の乗客が少ない市電の塩浜までを廃止することに決まった。
(4)大森、蒲田、川崎、鶴見など周辺10の一般駅の貨物を塩浜操に集約した。
しかし全国の貨車操車場廃止が決まったのは数年後である。
武蔵野操車場、新鶴見操車場、大宮操駅、長町駅など多くの貨車操車場が廃止になるなかで塩浜操駅が敷地を縮小しなかったのは、神奈川臨海鉄道各駅からの集配貨物であろう。浜川崎の短絡高架は廃止され、その跡が今も残っている。ハンプとカーリターダーは撤去された。
塩浜操駅はその後、川崎貨物駅と改称した。
- 森工業と明希工業
神奈川臨海鉄道の塩浜機関区の横の道路を少し横浜寄りに八年ほど前まで森工業の線路があった。一部分には上屋も付いていて中で作業をしていた。後に手前の線路が撤去されて駐車場になり、上屋が撤去され屋外のクレーンがある部分のみが残っていた。明希工業が使っていた。その後、クレーン部分もなくなった。
平成二十一年に付近の工員に伺ったところ、以前は新潟などからトラックにディーゼル機関車を積んでここで降ろし六年に一回の全般検査を行っていたそうだ。50tあるのでクレーンは二台あった。森工業と明希工業は同族会社で以前は日本鋼管の仕事をしていたが少なくなったので、新交通の台車などを検査しているそうだ。森工業が窓口になっている。明希工業には普通の鉄道の台車が積まれている(写真へ)。
神奈川臨海鉄道の社史に機関区の全般検査の業務を委託から自社に切り替えたという記事もある。
真岡鐵道のDD13は神奈川臨海鉄道の元DD55で平成五年の譲渡時に森工業に入場して全般検査を受けた。平成十四年に故障が続発し森工業が全般検査を真岡で実施した。その後再び故障が続発するようになり明希工業が神奈川臨海鉄道から部品を調達しようとしたが適当なものがなく廃車となった。
森工業や明希工業のある塩浜操駅南側は今でも町工場が密集し、プラザ合意以前の日本の製造業が元気だったころの雰囲気を残している。
- 桜本駅バス停
桜本のバス停留所は、桜本(市営、京急)、桜本駅(臨港)と2つの停留所名(写真へ)が書かれている。臨港バスの桜本バス停は別の場所にあるためだが、かつては鉄道の駅があったことを示す貴重な遺跡である。
しかし臨港バスの路線は廃止になったらしい。時刻表がない。桜本駅の名前もいつかはなくなるのであろうか。
かつてはここまでが京急であったが、川崎市が桜本塩浜間を買収し市電とした。
- 桜川公園の保存車両
桜本の少し手前の産業道路左側に桜川公園があり、市電が保存されている。柵で囲ってあるので状態は良好である。700形で、元は都電だったものを川崎市が買収し200形になった。その後、老朽化したため鋼体化し700形となった。
- 鉄道貨物の用語
貨車操車場廃止と国鉄民営化の客貨分離で忘れられてゆくものをここに記録したい。
- 操車場
貨車を行先別に組成し直すための貨車操車場と、客車を留置し整備検査修繕を行う客車操車場がある。一方で組織としては、駅の構内にある操車場は駅の一部であり、駅とは独立した場所にあるものを操車場と呼ぶ。
組織の操車場と区別するため、貨物操車場のことを貨物ヤード、客車操車場のことを客操という。貨物ヤードは昭和60年ころ全廃され直行貨物列車のみとなった。客車操車場は昭和31年あたりから客車の気動車化、電車化により大幅に減少した。
- 客貨車区
戦後、検車区と車電区が合併し、客車と貨車の検査修繕を行う客貨車区が客操と貨物ヤードのある駅、つまり全国の主だった駅に設けられていた。客車や貨車の入換は駅が担当し留置線も駅構内のため、客車の車体右下に小さく書かれているカタカナは常備駅であり、電車や気動車の配置区とは異なっていた。
例、オク(尾久駅常備)、シナ(品川駅常備)、ミハソ(宮原操車場常備)
上野には上野客車区、東京には品川客車区東京客車支区、新宿には新宿客貨車区派出所があり、客車の常備はないが発着列車の検査清掃やサービス班(走行中に不具合があると応急修理する)を行っていた。新宿の場合は旧1、2番ホーム(特急、急行発着ホーム)の代々木寄りに鉄製の階段がありその上に、新宿客貨車区新宿派出所、中野電車区新宿派出所の木の看板が掛けられていた。
- 駅区境界点
客車の気動車化、電車化とともに、動力車区と客貨車区を統合し、運転区、それを大きくした運転所と称するものが現れた。この場合、構内が駅なのか運転区(所)なのかは誕生時期による。(1)初期の会津若松運転区や小牛田運転区は会津若松駅や小牛田駅構内、函館運転所や下関運転所も函館駅、下関駅構内というように従来の客貨車区と同じ、(2)中期に駅とは別の場所に新設された向日町運転所も向日町操車場構内というように客貨車区と同じ、(3)後期に駅とは別の場所に新設された札幌運転区、青森運転所、仙台運転所、新潟運転所はそれぞれの運転区所構内というように駅からは独立していた。
長野運転所の場合は複雑である。北長野駅から出入りする長野運転所本所と、長野駅構内の旧機関区、旧客貨車区を第一分所、第二分所と呼んでいたが、後に本所に統合された。
客車区にも熊本客車区(川尻駅構内)など客車区の名称とは違う駅の客車区が現れた。こうなると客車に書かれたクマは常備駅ではなく配置区である。しかし熊本駅にも支区か派出所があって寝台特急は熊本駅で検査修繕をしていた。
検車区と車電区の合併、運転区(所)の誕生で、客車の管理が支社から客車区に移ったと想像している。一方で、貨車ヤードに常備された客車(救援車など事業用車)はムソ(武蔵野操車場常備、区名は武蔵野貨車区)、タミ(東京貨物ターミナル駅常備、区名は大井貨車区)のように常備駅名を守っていたが、ハタ(田端操駅、田端貨車区)のように駅名とは異なるものもあり、わざわざ田端貨車区まで聞きにいったら、(1)ハタということは田端貨車区がある田端操駅常備だ、(2)このあたり全体が田端ということでハタと書いてある、と人によって言うことが異なり、統一されていなかった。今考えると、元は田端駅だったものを昭和36年に2つに分割しその際に常備駅名を変えなかった(変え忘れた)だけではないだろうか。
- 回送の厚紙
客車の右下札差に「○○駅到着の上は、○○客貨車(支)区・運転(支)区に回送、××客貨車(支)区・運転(支)区」と書かれた厚紙を挿した車両が編成のなかに1両あるのを、上野駅などでよく見かけた。
例、「尾久駅に到着の上は尾久客車区に回送、小牛田運転区、床下水道管凍結破損」
- 操駅と操車場
貨車ヤードが構内にある駅を操駅、貨物ヤードのみで駅を伴わないものを操車場と称した。客操のみで駅を伴わないものも操車場と称した。
従って貨物駅がある大宮は大宮操駅だが、貨物駅がない新鶴見は新鶴見操車場である。その後、郡山操車場に貨物駅機能を付けて郡山貨物ターミナル駅となったように操駅という名称は新規には用いなくなった。
- 一般駅
以前はほとんどの駅が旅客と貨物を扱う一般駅であった。それ以外の、旅客しか扱わない駅を旅客駅、貨物しか扱わない駅を貨物駅と呼んだ。その後、赤字解消のため貨物駅の集約が行われ、例えば熊谷貨物ターミナル駅が出来ると周辺の一般駅の貨物を集約し、集約された駅は旅客駅になる、というようなことがたびたび行われた。
なお、隅田川駅、汐留駅、横浜羽沢駅は貨物主体であるが、旅客扱いの小荷物を扱っていた為、一般駅である。隅田川、汐留の検車区名称も、隅田川客貨車区、汐留客貨車区であった。
- 武蔵野操車場通過禁止
貨車には、「連結注意」「突放禁止」「武蔵野操車場通過禁止」の制限がある車両があった。
「連結注意」は、連結時に手前で一時停止が必要なもので爆発物などを搭載しているなど、一番制限が厳しい貨車である。
「突放禁止」は、突放入換(機関車から走行時に切り離し入換する)を禁止するもので、二番目に制限が厳しい。
「武蔵野操車場通過禁止」は、武蔵野操車場の突放入換時は自動操縦装置で手動に比べ衝撃が大きいことから、突放入換は可能でも武蔵野操車場で入換できない車両であった。
武蔵野操車場は廃止され、今ではこの指定はなくなった。
- 客車と気動車の回送
客車と気動車の回送は貨物列車に貨車と併結して行っていた。客車は任意の位置に連結できるはずだが、機関車の次位か最後尾の車掌車の1つ前がほとんどである。一回だけ中間に客車が連結されその後方がすべてタンク車のため途中で後半を連結したと思われる編成を見たことがある。なお12系等新系列の客車は車掌車の前と決められていた。気動車も車掌車の前である。貨物操車場全廃ののち、品川に床下から臨時に電線を窓の外に這わせた客車が現れた。品川から客車を回送する際に、貨物列車に混結できなくなったため、回送列車を仕立て、最後尾に車掌車代用の客車に暖房用電源を設置したのであろう。
- 輸送本部と構内本部
本線を走ってきた貨物列車の機関車付け替え、到着発車時刻を記録する部署が輸送本部である。一方、構内の入換を行う部署が、構内本部である。
どちらも、運転係(操車担当)、運転係(信号担当)、構内係で構成されていた。
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