勝鬨橋と都電
平成18年10月
「かちどき橋の資料館」の館長さんにいろいろお話を伺いました。
- 勝鬨橋の橋の幅が広いのは最初から路面電車も走らせる予定だった。当時は軌道敷地内は自動車通行禁止であった。
- 路面電車用のトロリーポールは橋を建設したときから付いていた。
- 橋の運転室には2枚の橋を操作できるように、制御レバーが2組あったが1つで両方を操作するようにした。片方の橋を上げるときは、切り替えレバーで切り替えてから制御レバーで操作した。橋の角度を表示するメータは途中で壊れてしまった。以後、半自動になった(橋が一定角度を超えるとモータの回転が遅くなる)。橋を戻すときは目視に頼った。
- 橋は125馬力のモータ。非常用に2組ある。他にクラッチ、手動ブレーキ、手動の巻上げハンドルが橋の下にあり、橋を開閉するときは職員1名が待機した。
- 回転の重心は橋の付け根から10cm先にある。手動の巻上げハンドルは橋を閉じることは可能だが上げることは人力では事実上不可能か。
- ワードレオナード法の回転整流器が予備および強風用を含め2台。誘導モータで大きい発電機と小さい発電機を回す。大きい発電機が他励磁分巻モータ、小さい発電機は自励磁複巻モータで橋と大きい発電機に励磁電力を供給。橋は他励磁分巻モータ。
- 電力は東京市電気局、戦後は東京電力から受電。橋の管理は戦前は東京市、戦後は中央区。
- 橋の上を戦後都電が走るようになった。
- 昭和8年工事開始
- 昭和15年勝鬨橋完成
- 昭和22年都電開通
- 昭和43年船の通行による橋の開閉なくなる
- 昭和43年都電廃止
- 昭和45年最後の試験開閉。以後開かずの橋となる。
- 昭和55年開閉規則の廃止。変電所への送電停止。
- 勝鬨橋を走った都電は11系統新宿~月島(他に11系統例外新宿~新佃島)と思っていたが「かちどき橋の資料館」の年表によると「月島~新宿と月島~渋谷」の2系統になっている。昔の都電に詳しいSさんにお聞きしたところ次の解答をいただいた。
- 昭和19年12月25日築地の折返線(林病院前)が勝鬨橋の西詰まで延伸。その際は、渋谷~築地の9番がそのまま延長運転されたもよう。9番は、同年5月までは水天宮へ、更に以前は両国まで行っていた。そのこともあり、水天宮方面への運転も例外系統として残されていたと思われる。この時点で新宿からの11番は築地止まりのままだったもよう。
- 昭和21年4月16日(異説あり)月島通八から東詰までが延伸。柳島からの23番がそのまま延長された。つまり、9「渋谷駅前~勝鬨橋(西)」、23「柳島~勝鬨橋(東)」となった。
- 昭和21年5月茅場町~蛎殻町間の鎧橋が老朽化のため、都電の運転は休止。
そこを通っていた21番「千住四~築地」は鎧橋手前で打ち切り。
そのため鎧橋西~築地を走る系統が消えてしまうので(後の36番は未復旧)、
9番を再び茅場町方面へ向かわせることにした。
そして9番が撤退する築地~勝鬨橋(西)は、築地止まりの11番を回した。
こうして、9「渋谷駅前~鎧橋」、11「新宿駅前~勝鬨橋」という状態が1年半続いた。
- 昭和22年12月24日勝鬨橋上の都電が開通。11番が「新宿駅前~月島通八」として開通。23番は、元の「柳島~月島通八」へと後退。
- 昭和23年7月鎧橋を通らない茅場町~蛎殻町の新線ができ、9番は再び水天宮へ。
(同時に21番も「千住四~水天宮前」に短縮されたと考えられる。)
- 昭和25年現在の系統図では、9番は「渋谷駅前~月島通八」。
同年の交通調査でも、本系統は月島まで、例外が水天宮までとなっている。ただし乗客数は「例外」の方が多く、運転本数も相当なものだったと思われる。
- その後、月島行きが9番の公称上の本系統。昭和23年10月に36番「錦糸堀~築地」が開設されているからその頃か?
- 昭和30年7月9番はまた水天宮方面を本系統とすることになり、浜町中ノ橋まで延長しそちらを本系統、月島を例外。(本系統の例外としては森下町までの延長運転があった)
- その後月島への例外系統は新佃島まで延長運転。
- 38年10月青山線廃止による「9系統迂回」の際に月島への例外系統は廃止。
- 42年12月10日の都電の大幅な廃止日以降、9番は「渋谷駅前~新佃島」に戻る。
- 43年2月25日11番廃止
- 43年9月29日9番廃止。勝鬨橋から都電が消える。
- 勝鬨橋関連では、11系統についても門前仲町までの例外運転や、
それを短縮した新佃島までは殆ど本系統のように運転されていた。
Sさん、どうもありがとうございました。Sさんには26番(東荒川~今井)廃線跡を昨年歩いたときも資料を配布してくださり、その熱心さには頭が下がります。
その後Sさんの友人Uさんもご教示してくださり、本当にありがとうございます。
- 昭和23年9月30日付公報第376号によれば、休止路線の復活として
10月1日より36系統錦糸堀-築地を設定、同時に9系統渋谷-水天宮を
渋谷-月島に変更。同日付の読売新聞には10月は「朝6時から夜8時まで渋谷-水天宮も運転する」。10月に限らず乗客数で水天宮の方が多かったので常態化してしまったのでは?
- 事業概要によれば昭和30年7月15日に渋谷-月島は渋谷-浜町中ノ橋に変更。
- 私見だが新宿系統が水天宮方面に入らなかったのは大形車(5000形)の入線が難しかったからでは。
- 事業概要によれば11系統月島→新佃島の延長運転は昭和36年4月15日から始まり、その詳細は「急電」118号の江本広一氏の記事によると、この延長運転は7時~18:30の間であり、同時に9系統の例外月島行も新佃島とし、こちらは1日11回限定。
- 都内の自動車数、勝鬨橋の年間開閉回数、都電の乗車数のグラフを前に「かちどき橋の資料館」の館長さんに説明を伺った。戦後自動車が急速に増えると、船の輸送が減少し橋の開閉回数は減っていった。しかし都電の乗客数は減らず踏ん張っていたが、起動敷地内に自動車乗り入れが許可されると乗客数は大きく減っていった。
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