富士宮駅調査記録
平成18年10月
今年の春、静岡市に用事があり、途中1時間ほど身延線富士宮駅に立ち寄った。
富士宮駅は、かつては創価学会の団体列車が多数発着していた。しかし1991年以降、団体列車は廃止され当時の施設が使われずに残っている。今回これらを調査した。
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富士宮駅の身延寄りで本線、側線が一旦収束した後に、8本の線路を持つ留置線群を分離する。このうち5本は機廻り(機関車付け替え)の為、再度一本に収束した後に車止めに至る。残りの3本は収束しないで車止めに至るため電車留置線であろう。
- 収束する5本のうち本線に近い4本は入替信号機が踏み切りの少し手前にあり、有効長が長い。残りの1本(機廻り線と思われる)と電車留置線は乗務員宿泊所跡の先に入替信号機があり、有効長は短い。
- 乗務員宿泊所は仮称で建物の正式名は不明。車内整備の下請け会社の部屋もあったはず。信号と転轍器の操作は駅の本屋(中心の建物)から遠隔で操作していたのだろう。客貨車区と電車区の派出はなかった。
- 本線から一番遠い留置線脇の道路側の壁には「1970.6」と工事年月が書かれている。この留置線群は昭和45年から使われ始めたのであろう。
- 付近住民の話
- 昭和45年から使われた。
- 7本全部に入ることはなかった。3本か4本に列車が止まっていた。
- 鉄塔の上にタンクが今でも見えるが、列車の便所の水などを給水した。
- 5年前まで週に1回か2回、1編成の電車が止まっていた。
- 昨年、架線、サーチライトなどはずせるものを全部はずした。
- 留置線群の身延寄りに、保存湧水池がある。
- 富士宮駅は島式ホーム(たぶん12両分)と団体用片側ホーム(同)がある。後者からは道路横の団体専用バス乗り場に直接出入りできる改札口がある。島式ホームと団体用片側ホームは専用橋で結ばれている。本屋(駅の中心の建物)から島式ホームへ行く一般乗客用の橋にも団体用片側ホームに降りる通路と階段が付いている。
- 身延線の他の駅はホーム長が4両程度であり、富士宮駅のホームの長さが目立つ。島式ホームからも団体列車は発着(ほとんどは到着で発車は団体用片側ホームからと思うが不確実)していた。
以下は今回の調査内容ではないが記録しておきたい。
- 身延線は富士駅から最初は東京方向に分岐していたが昭和44年に静岡方向に分岐するよう線路を付け替えた。これにより東京方面からは折り返さずに、従って客車の場合は機廻りせずに富士宮に行けるようになった。なお、富士駅止まりの創臨(国鉄では創臨と呼んでいた)もあり、その場合は富士駅から富士急行の団体バスで大石寺まで輸送していた。
- 身延線は富士から富士宮までが複線、残りの甲府までは単線である。前述の線路付け替え時に高架化、複線化が行われ、富士宮までの残りの区間も昭和49年までに複線化された。
- 東京から富士宮までの輸送は、最初は夜行の従来客車の列車が多かった。後に80系電車(すべての座席が向かい合いで扉はデッキにある)が用いられ、東海道線が113系(近郊型という扉の近辺は縦に配置された座席の車両)になってからも長らくこの状態が続いていた。東京からは富士宮までのことも富士までのこともあった。当時の鉄道ファン誌によると、各地からの客車列車は回送で品川駅に留置され帰路もまた富士宮または富士まで回送して団体客を乗せて各地に戻った。回送時に東京の団体客があるとそれに乗車した。それとは別に東京から富士宮まで電車の予定臨または定期団体列車が設定してあった。この記事は富士宮駅留置線ができる前の内容ではあるが既に富士駅の線路付け替え後の記事である。静岡方面からの列車は富士止まりで品川に回送した。富士駅の線路を見ると機廻りできなくはないのだが。
- 富士と品川の間には沼津に客操(客車操車場)があるが、ここは創臨の留置には使われなかった。当時の電話帳には沼津客貨車区客操事務室という電話がある。客操事務室という組織は全国の客貨車区でも沼津だけである。客操の業務は大きく客貨車区の検修、整備と、駅の操車、信号に分けられる。客操事務室では駅の業務も行うのかわざわざ聞きに行ったところ、他の客貨車区と同一であった。貨車の検修と客車の検修の位置が離れているため、このような名称を用いているようであった。
- 団体客は日程や旅行中の注意事項、参拝券、帰りの乗車券などを綴じた冊子を改札に出すと駅員は改札挟を冊子ごと入れた。品川以外の駅からは品川までの切符といっしょに品川で精算した。昭和43年頃、東京逗子の大人運賃が250円くらいのときに品川富士宮の団体片道運賃が250円くらいと聞いたことがある。通常の団体運賃ではなく定期券扱いではないだろうか。
- 帰りは富士宮駅の団体ホーム横の改札口に帰りの乗車券を渡しホームに入った。国鉄は受け取った乗車券の人数分の運賃を創価学会に請求した。
- 品川以外で下車する人は、乗車後、車掌が来たときに精算券(降車駅、月日に穴を開ける細長い切符。下に沼津車掌区と印刷されている)を買うが、ほとんど全員が精算するため車掌は一両扱うだけでもかなりの時間がかかった。
- 後に山手線内のどの駅からでも乗車できるようになり、帰りは東京電環内有効の硬券が配布されるようになった。
- 高崎、仙台、長野、新潟など東日本各地から12系客車の創臨がまず上野で時間調整し、東京で時間調整し、品川で時間調整した。臨時列車は定期列車の間にスジ(ダイヤ)を入れるため、この3駅では10分程度の停車時間が発生した。後に品川で機廻りして山手貨物線経由となった。これは東京上野間の線路が廃止されたためである。更に後には武蔵野線経由となった。
- 全国の客操には12系が操配用(臨時列車用)に常備されていた。そのなかで品川、沼津は14系は常備されていたが12系はなかった。12系は昭和45年の万国博覧会輸送用に製造されたが、同時に創臨用でもあった。
- 昭和45年の鉄道ファン誌の12系登場に至った背景は、ゴールデンウィークを中心とした春季の多客時、お盆を中心とした夏季の多客時、年末年始に1500両必要で、今までは検修の調整、ローカル列車の減車で900両、団体用の600両を使用していたことが書かれている。この1500両を12系で賄う計画であった。
- しばらくして富士から富士宮までは便所使用禁止になった。高架付近の住民から苦情が出たのであろう。輸送班が車内を注意して歩いた。輸送班は団体列車以外の大石寺境内の整理なども行うため、昭和52年ころ創価班と改められた。
- 創価学会以外にも富士宮まで国鉄の団体列車を使用する信徒団体があり、人数が創価学会と比べて極めて少ないので月に1回、それも品川着発の電車1編成のみであった。この団体も創価学会を真似して輸送班があり、創価学会が創価班と名称を変更した後も輸送班と呼んでいた。
- この団体は創価学会と違って団体行動が得意ではないので、帰りは別行動を取る人がいた。すると予定の収入を得られず国鉄が不信感を持つようになる。
- 品川駅の団体待合所は創臨以外にも使うはずだが、周囲の広告はすべて仏具店など創価学会員向けのものだった。
2chという掲示板がある。メニューの広告からして青少年の育成に良くないため私は使わないが、検索エンジンから直接入ったのであろう。私の書き込みが2件あった。創臨のスレッドにも変な書き込みが多いが、私はこの2件以外は書き込んでいない。
- 188 :03/12/22 15:35
S44ころ東京電環から富士宮まで1人250円でした。
東京から藤沢あたりまでの普通運賃です。団体割引というよりは定期と同じような扱いだったんでしょう。
乗車駅で登山手帳に入鉄し、下車するときに1枚目の券を渡し、その枚数分国鉄から学会に請求が行きました。
帰りは富士宮または富士で乗車時に2枚目の券を渡しました。
当初は品川までで、それより先で降りる人は車掌が清算に来ましたが、品川で降りる人はほとんどなく全員清算のため車掌がすぐそこにいるのになかなか進まなかったですね。沼津車掌区でした。
その後、東京電環(これもなつかしい言葉だが)まで有効になりました。
- 189 :03/12/22 15:42
昭和47年ころの鉄道ファンという月刊誌に創臨特集があります。
それによると富士宮または富士に着いた客車は品川まで回送したそうです。首都圏の乗客がいるときは乗せました。
私も昭和40年頃、深夜に品川を発車する旧客車で富士宮に真夜中に着き、たしか数息洞で仮眠したことがあります。丑寅勤行には間に合いません。
この投稿は3年前だが、往路に1枚目を渡すことは今は覚えていない。3年間で忘れてしまったようである。記録は忘れないうちに行なったほうがいいと思い、今回このページを作成した。私の投稿ではないが、創臨のスレッドにある投稿を幾つか紹介する。
- 創臨体験者への聞き書きも今のうちかな。旧型客車時代が知りたい。
おれは80系300番台でした。富士でスイッチバックしていたころ。ホームの無いところで30分以上停まっていたような。
近年は白山色の485が法華講登山で来ていた。
- ながらく11時33分か、片道だけの80系グリーン車なしという 東京駅発普通列車があったことをおぼえている。
- 東北新幹線の東京駅乗り入れ90年してすぐ91年の登山列車廃止だったから、その 1年半だけは、新幹線ダイレクト新富士への登山会だったのだろう。89年まで12系客車が、埼玉県大宮から富士宮を結んでいたはず。14系座席車が使われた形跡はあっただろうか。
- いつからか富士停車するようになった寝台特急は団体でも使われていたのだろうか。
- EF58-41の絵。手本は青大将のよう。石井いさみ画。昭和26年ころの本線富士駅上り出発の絵。身延線内は輸入機関車かEF15あたりかもっと古いD形か。
- サロ85-0番台は印象的。上り出雲の寝台も。
- 3年前に、富士宮駅に降りたが、創臨が消え 構内も寂しく感じたよ。駅員の出面も助役から3~4名と聞き驚いた。駅自体の活気が消えたね。まぁ日顕臨の運転だけでは、昔のような活気はないか。
- 創臨は、昭和40年代の思い出が多い。首都圏からの日帰り登山は、夜遅くに出発、当時は80系だった。1泊登山では153系も使用。又、富士継送もあり、首都圏発着登山でも 帰路 富士から客車というのもあった。
最後に「日蓮正宗、落日の真因」(渡辺慈済氏)から乗客数を推定する。
- 昭和36年の登山者は150万人、昭和39年は大客殿落慶300万人登山、昭和47年は正本道落慶1000万人登山
- 平日でも六、七千人、日曜は一万、二万人
このころから団体バス、個人による登山が始まった。すると富士駅、富士宮駅の乗客数は150万人程度だろうか。団体バスは富士急行のほかに大富士開発という創価学会専用のバス会社も作られた。
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