三千二百六十二(うた)AIに鉄道を訊く、操車場の略称、川崎と横浜の貨物(小田、浜川崎、塩浜操、川崎、東高島、高島、表高島、横浜港)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
七月二十一日(火)
前回で、AIに鉄道を訊く、、は終了のはずだった。ところが、簡単な質問から発展し、更に川崎と横浜の話題へ移り、一つ分が完成した。
旧国鉄 漢字一文字と操の二文字で、操車場名を表す
旧国鉄時代から、全国の主要な操車場は、その地名の漢字一文字に「操」を続けることで略称として表記されていました。運転士の時刻表や社内文書などで広く使われていた慣習です。
代表的な例としては以下の場所が挙げられます。
大宮操(おおみやそう):大宮操車場(埼玉県)
吹操(すいそう):吹田操車場(大阪府)
新操(しんそう):新鶴見操車場(神奈川県)
稲操(いなそう):稲沢操車場(愛知県)
東操(ひがしそう):東新潟操車場(新潟県)
この他にも、田端操、新小岩操、東大宮操、竜操(竜華操車場) など、様々な操車場で同様の略称が使われていました。
間違った部分を赤字にした。特に、大宮操、田端操、新小岩操は、操車場ではなく、駅だ。
国鉄時代に操車場はほかに
東北・北海道エリア
五操(ごそう):五稜郭操車場(北海道)青函連絡船と連動し、北海道の物流の玄関口として機能しました。
長操(ながそう):長町操車場(宮城県)東北本線の要所で、東北地方最大級の貨物中継基地でした。
郡操(ぐんそう):郡山操車場(福島県)磐越東線・西線が交わる拠点でした。
関東・甲信越エリア
高操(たかそう):高崎操車場(群馬県)上越線や信越本線に向かう貨物列車を仕分けていました。
宇操(うそう):宇都宮操車場(栃木県)東北本線の貨物輸送の効率化を支えました。
新操(しんそう):新鶴見操車場(神奈川県)日本三大操車場の一つで、東海道本線や武蔵野線が集まる超巨大拠点でした。
大操(おおそう):大宮操車場(埼玉県)東北・上信越方面からの列車が集まる大動脈の要でした。
東海・北陸・近畿エリア
稲操(いなそう):稲沢操車場(愛知県)日本三大操車場の一つで、東海道本線と中央本線の中継点でした。
富操(とみそう):富山操車場(富山県)日本海縦貫線の貨物輸送を支えた拠点です。
吹操(すいそう):吹田操車場(大阪府)日本三大操車場の一つで、東海道・山陽本線や、関西の各路線を結ぶ巨大施設でした。
竜操(りゅうそう):竜華操車場(大阪府)関西本線や阪和線、南海電鉄との貨物中継などを担いました。
中国・四国・九州エリア
東操(ひがしそう):東広島操車場(広島県)山陽本線の拠点。現在の広島貨物ターミナル駅にあたります。
幡操(はたそう):幡生操車場(山口県)本州と九州を結ぶ関門トンネルの手前にある重要な中継地でした。
鳥操(とすそう):鳥栖操車場(佐賀県)鹿児島本線と長崎本線が分岐する、九州最大の操車場でした。
門操(もじそう):門司操車場(福岡県)九州に渡ってきた貨物列車を最初に仕分ける要所でした。
国鉄末期の1984年2月のダイヤ改正(59・2改正)により、これらの貨車仕分けを行う操車場は原則としてすべて廃止されました。
後に、操車場が貨物取扱機能を持ち、駅になったものが多い。
(1)鳥操で、とすそうと読むのか、(2)東大宮操だと東大宮操駅になってしまう。大操と呼んだ、(3)東操は、東新潟と東広島の両方か
ご指摘ありがとうございます。不正確な記述や誤解を招く表記をしてしまい、大変失礼いたしました。3つのご質問に対して、改めて正しい情報へと訂正・回答いたします。
(1) 「鳥操」の読み方について
ご指摘の通り、「とすそう」ではなく、正しくは「とりそう」と読みます。
(2) 「東大宮操」と「大操」について
こちらも大変失礼いたしました。「大操」の解説に誤りがありました。
東大宮操車場(客車・電車の車両基地):時刻表等では「東大宮操」や「東大宮」と表記され、現場では「東大宮操車場」と呼ばれますが、「大操」とは呼びません。
(3) 「東操」について
「東操」という略称が使われていたのは、主に「東広島操車場」(山陽本線)です。前回の回答で「東新潟操車場(東操)」と記載してしまいましたが、こちらは「東新潟操車場」ではなく、正式名称は「新潟操車場」(白新線)でした。そのため、こちらの略称は「東操」ではなく「新操(しんそう)」、あるいは大宮などの新鶴見操車場(新操)と区別するために「新潟操(にいがたそう)」と呼ばれていました。したがって、「東操」といえば、一般的には「東広島操車場」を指します。
東広島操車場は、広島操車場として開設、後に東広島駅になり、更に広島貨物ターミナルになったのでは
ご指摘の歴史的変遷が、完全に正しい事実関係です。
1. 「広島操車場」の時代(1916年〜1984年)
山陽本線の上り線と下り線に挟まれたエリアに、大正時代に「広島操車場」(当時は「広操(ひろそう)」)が開業しました。
2. 「東広島駅(貨物専用)」の誕生と並立(1969年〜1995年)
これとは別に、1969年に広島駅の貨物取扱業務を切り離す形で、山陽本線下り線のさらに南側に、貨物専用駅の「東広島駅」が開業しました。つまり、1969年から1984年までの間は、「広島操車場(上下線の間)」と「東広島駅(下り線の南側)」がすぐ隣同士で並立していたことになります。
3. 旧広島操車場跡地への「引っ越し」と「広島貨物ターミナル駅」への改称(1995年)1987年の民営化でJR貨物の東広島駅となった後、設備を近代的な着発線荷役方式(E&S方式)にするため、旧広島操車場へ線路やホームを丸ごと引っ越す大工事が行われました。1995年(平成7年)に、駅名も現在の「広島貨物ターミナル駅」へと改称されました。
(※なお、これより前の1984年には新幹線の「東広島駅」が開業していたため、駅名が紛らわしくなるのを解消する目的もありました)
大宮操車場は、大宮操駅だったので、大操とは呼ばなかった。東大宮操車場は、操車場なので、現に大操と呼んでいた
大宮操車場は、1961年に貨物駅に昇格して「大宮操駅」となったため、略称や通称は「大宮操」であり、「大操」とは呼ばれません。
一方、東大宮操車場は独立した操車場の扱い(駅ではなく大宮駅の構内扱い)であったため、大操の略称で呼ばれていました。
東大宮操車場は、大宮と東大宮の間に渡り線もあり、大宮から独立した停車場だった。しかし職員数は少ないので、大宮駅から出張して管理していた
当時の東大宮操車場は、法規上の扱いやシステム上の駅名コードも含め、大宮駅から完全に切り離された「独立した一停車場」として機能していました。
大宮〜東大宮間には本線と操車場を結ぶ渡り線(絶対信号機)が設けられており、運行管理上も大宮駅の構内ではなく、独立した停車場だからこその配線構造になっていました。
一方で、独自の駅長や大量の常駐管理職員を配置する組織形態はとられませんでした。
そのため、実際の管理や実務面においては、親駅である大宮駅から職員が出張して管理・運営を行いました。
計画段階では電車区として作るはずだったが、実際は操車場と尾久客車区の派出所になった
1960年代の計画初期には、電車区を新設する計画が進められていました。しかし、実際の開設(1969年)にあたっては方針が変更され、以下の体制として誕生することになりました。
制度・現業機関としては独立した東大宮操車場を開設。
実際の検修・整備実務としては、尾久客車区東大宮派出所を構内に設置。仕業検査や清掃整備を行う形に落ち着きました。
(1)小田操車場は、漢字1字+操の略称があったか。(2)小田操車場の役割は
国鉄の臨海部貨物輸送を支えた小田(おた)操車場についての回答です。
(1) 小田操車場には、略称は使われていませんでした。
実際の呼ばれ方:現場や書類上では略さずそのまま「小田操(おたそう)」、あるいは電報略号の「オタ」が使われていました。
(2) 小田操車場の役割
1943年(昭和18年)に開設され、主な役割は国鉄と南武鉄道の間での貨車授受・中継および、川崎・浜川崎地区の貨物列車の解結(受け渡し調整)」でした。
戦時下の輸送連携:開設当時は南武鉄道が私鉄だったため、国鉄との授受線(受け渡し用側線)が必要でした。その連携基地としての役割を担いました。
狭隘な臨海駅の補完:隣接する浜川崎駅や川崎駅の構内はすでに周囲の工場群で手狭になっていたため、長大な貨物列車をそのまま受け入れる余裕がありませんでした。そのため、手前の小田操車場に中途半端な仕訳線をいくつか設け、列車を一時的に留置したり、短く切り離して送り出したりする補完機能としての役割を果たしていました。
その後、1944年に南武鉄道が国有化され、さらに戦後に尻手連絡線などが整備されると役割は低下し、1973年に川崎新町駅の構内扱いに統合される形で廃止されました。現在も、周辺には名残として「小田操緑地」という公園名が残っています。
塩浜操車場と、浜川崎駅の、役割分担は
国鉄時代における塩浜操車場(塩浜操・現:川崎貨物駅)と浜川崎駅は、爆発的に増加する京浜工業地帯の貨物を捌くため、以下のような明確な役割分担(主従関係)が敷かれていました。
結論から言うと、「塩浜操が広域・大規模な仕分けを行う中心基地」であり、「浜川崎駅はその手前で特定の工場(臨海部)へ貨車を振り分ける、地域密着の玄関口」という関係です。それぞれの具体的な役割と、分担の経緯は以下の通りです。
1. 浜川崎駅の役割:地域密着の「中継・仕分けの玄関口」塩浜操が誕生する前(1964年以前)は、浜川崎駅がこの地区すべての貨物を引受けていました。しかし、周囲を巨大な工場に囲まれ敷地の拡張が不可能でした。塩浜操ができてからの浜川崎駅は、以下のように役割を絞り込みました。
特定専用線への直結:日本鋼管や東芝など、浜川崎駅の周辺に広がる超巨大工場への専用線貨物の発着。
鶴見線の中心:扇町や大川町といった、鶴見線沿線の臨海工業地帯から集まる貨車の小規模な中継・集約。
塩浜操への玄関:自駅で捌ききれない全国行きの長大な貨物列車を、塩浜操車場へ送り出すための準備。
2. 塩浜操車場(塩浜操)の役割:近代的な広域・大量組成の巨大施設
1964年、限界を迎えた浜川崎駅のバイパスとして、大師河原の広大な埋立地に開設されたのが塩浜操車場です。最新鋭の設備を備えた塩浜操は、地区の中心として以下の役割を担いました。
神奈川臨海鉄道との連携:同時に開業した神奈川臨海鉄道(千鳥線・浮島線・水江線)を通じて、新しく造成された塩浜・浮島地区の石油コンビナートや化学工場からの貨物を一手に集約。
全国規模の仕分け:ハンプを備え、1974年にはコンピュータシステム(YACS)を導入。周辺の各工場から集まった個々の貨車を、行き先別に高速で再編成し、全国の幹線へと送り出す役割。
コンテナ輸送の拠点化:早くからコンテナホームも設置され、新しい貨物輸送の形態にも対応。
まとめると
浜川崎駅:歴史ある「鶴見線・地場工場」側の拠点。
塩浜操車場:新しくできた「神奈川臨海鉄道・コンビナート」側の象徴でもあった日本鋼管の専用鉄道と、国鉄(浜川崎駅・塩浜操車場)の関係は、日本の産業界・鉄道史を見渡しても最大級かつ極めて特殊な密接関係にありました。その関係性の深さと役割分担の実態は、以下の通りです。
1. 事業所単位の日本最大の専用鉄道
規模:1,067mm軌間で、ピーク時の総延長は50km以上、保有する自社機関車(DLなど)と貨車は合計600両以上に達しました。
地区の網羅:浜川崎駅南側の南渡田地区から始まり、扇町、大島、池上町、そして後に人工島として造成された水江町や扇島にいたるまで、臨海部の主要な全地区を網羅する巨大な自社鉄道網を構築していました。
2. 浜川崎駅との関係:国鉄と直結した「物流の巨大大門」塩浜操車場が誕生する前、この巨大な専用鉄道の「唯一の国鉄連絡口」が浜川崎駅でした。
貨車の直接授受:国鉄のSLやELが引いてきた石灰石(富山県の青海駅など全国から現地の原料が到着)や石炭の貨車は、浜川崎駅の授受線(国鉄と日本鋼管の境界線)に置かれました。
そこから先は、日本鋼管の自社機関車が工場内へ引き込んでいきました。
製品の全国発送:工場で製造された鋼管や鋼板、レールなどの鉄鋼製品は、自社の貨車や国鉄の貨車に積み込まれ、浜川崎駅から日本全国の需要地へ向けて発送されました。
3. 特筆すべき超特殊運用:「溶銑(ようせん)鍋列車」の国鉄本線走行
国鉄と日本鋼管の緊密な協調関係を最も象徴するのが、昭和30年代〜40年代前半に見られた「溶銑(メルト)輸送」です。
高炉から平炉へ直接運ぶ:当時、日本鋼管は「川崎製鉄所(高炉があり、鉄鉱石を溶かしてドロドロの液体にする)」と「鶴見製鉄所(平炉があり、その液体を加工する)」に分かれていました。
効率化のため、1000度以上に融けた真っ赤な液体鉄(溶銑)を特製の容器(溶銑鍋車、国鉄形式シキ200など)に流し込み、そのまま運ぶ運用を行っていました。
国鉄の線路を借用:この溶銑列車は、日本鋼管の専用鉄道から国鉄の浜川崎駅〜(鶴見線)〜浅野駅の区間をそのまま直通走行していました。
国鉄の本線上に1000度以上の液体鉄を載せた貨物列車が走りました。
4. 塩浜操車場(塩浜操)誕生後の変化:バイパスの開通
高度経済成長期に突入し、日本鋼管の増産と周辺工場の拡大によって、浜川崎駅だけでは国鉄貨車を捌ききれなくなりました。
塩浜操(水江線)との接続:1964年に塩浜操車場と神奈川臨海鉄道(水江線など)が開業すると、日本鋼管の東側(水江町地区など)のネットワークは、塩浜操側とも線路が繋がることになります。
役割の分散:これにより、従来は「すべて浜川崎駅」に集中していた日本鋼管発着の貨物が、西側は浜川崎駅、東側は塩浜操車場(神奈川臨海鉄道経由)へと分散されました。
国鉄側にとっても、日本鋼管は「日本屈指の超大口顧客」であり、日本鋼管にとっても、国鉄(および神奈川臨海鉄道)は「原料の搬入と製品の出荷を司る生命線」でした。両者は足並みを揃えて巨大な配線と運行体制を維持し続けていた、まさに相棒のような関係でした。
塩浜操の入換は、すべて神奈川臨海鉄道に委託したのか
すべてを神奈川臨海鉄道に委託していたわけではなく、国鉄と神奈川臨海鉄道による棲み分けをとっていました。
1. 国鉄が自前で行っていた入換(主たる仕分け)
全国から集まる長大な貨物列車を分解し、行き先別に再編成する基幹業務は、国鉄が自らの手で行っていました。
ハンプでの突放作業:機関車で貨車を坂の上へ押し上げ、自重で転がして仕分け線に落とし込む作業は国鉄の担当です。
国鉄の機関車:主に国鉄のDE11形ディーゼル機関車など配備され、国鉄の構内係員(操車係)の手によって24時間体制で入換が行われていました
。2. 神奈川臨海鉄道が担っていた入換(臨海線への継送・専用線対応)
神奈川臨海鉄道は、自社線(水江線・千鳥線・浮島線)の着発線周辺や、そこから繋がる各工場の専用線地域の入換を担っていました。
駅業務の受託:1964年の開業当初から、塩浜操駅の一部の「駅業務(荷札の管理や一部線群の管理など)」については国鉄から神奈川臨海鉄道への委託が始まりました。
国鉄末期〜現在の完全委託へ
しかし、1984年のダイヤ改正(59・2改正)で、ハンプを用いた車扱輸送が廃止され、1987年に国鉄が分割民営化されて「JR貨物」になると状況が一変します。
輸送形態がコンテナ直行列車が主流に変わったことで、駅全体の業務や構内入換のすべてを神奈川臨海鉄道へ全面的に一括委託する形(共同使用駅・臨海鉄道委託)へと移行していきました。現在(川崎貨物駅)は、JR貨物の電気機関車が引っ張ってきたコンテナ列車を、神奈川臨海鉄道の機関車(DD60形など)が入換する光景がお馴染みになっています。
尻手から小田操車場までの単線と、川崎駅から小田操車場までの単線は、どう使い分けたか
当時の小田操車場を取り巻く「尻手からの単線(南武鉄道・のちの南武支線)」と「川崎駅からの単線(川崎〜浜川崎間の貨物支線)」の使い分けは、「私鉄と国鉄」から、「行先や輸送目的による内陸・臨海の経路」へと替わりました。
1. 尻手〜小田操車場の単線(南武線)
主な役割:内陸部からの「石灰石・砂利」の搬入経路
具体的な使い分け:青梅や奥多摩、多摩川流域から集まる石灰石や建材用の砂利などを、南武線経由で臨海部の工場(浅野セメントや各製鉄所)へ直接送り込むために使われました。
2. 川崎駅〜小田操車場の単線(東海道線)
主な役割:全国の幹線網と結ぶ「工業製品・石炭」の搬送経路
具体的な使い分け:東海道本線を通じてやってくる全国各地からの一般貨物や、京浜工業地帯で作られた「鉄鋼・機械などの大型製品」を日本全国へ発送するための経路として使われました。
川崎駅の広大な貨物設備と連動していました。
しかし、1944年(昭和19年)に南武鉄道が国有化されると、以下のような効率的な使い分けがさらに加速します。
旅客と貨物の完全分離:川崎駅からの単線は「貨物専用」として純粋に機能し続けました。
一方で、尻手からの単線は貨物だけでなく、工業地帯へ通勤する労働者のための南武支線としても併用されるようになりました。
廃止と統合:1964年に塩浜操車場が誕生すると、川崎駅から小田操車場は役目を終え、1973年に廃止されました。
小田操車場の構内における2本の単線の合流方法は、
川崎新町駅(小田操車場)の構内で並行しながら、複数のポイント(分岐器)を介して仕分線群に合流・接続する構造」をとっていました。
1. 「単線並列」として構内へ進入
尻手からの単線(南武鉄道・のちの南武支線)と、川崎駅からの単線(国鉄貨物支線)は、それぞれ別の方向からやってきて、現在の川崎新町駅の敷地(小田操車場)の手前で並ぶ形(単線並列)になりました。
北西側からアプローチする「南武ルート」
北東側の川崎駅方面からカーブしてくる「国鉄ルート」
この2本が小田操車場の入口付近で寄り添うように並び、そのまま操車場構内へと入っていきました。
2. 構内での合流と仕分線への広がり操車場の構内に入ると、2本の単線はそのまま独立して通り過ぎるのではなく、いくつものポイントによってお互いの線路が行き来できるよう結合されていました。
私鉄と国鉄の境界としての結合:南武鉄道が国有化される前(1944年以前)は、この合流地点こそが「私鉄と国鉄の貨車受け渡し(授受線)」の現場でした。
南武の機関車が引いてきた貨車をポイントを通して国鉄側の側線に転線させたり、逆に川崎駅から来た国鉄の貨車を南武側に引き渡したりするための渡り線(シーサスクロッシング等)が機能していました。
仕分線(側線)群への分岐:構内には、長大な本線(通過線)とは別に、中途中半端な長さの仕分線(側線)が複数本並んでいました。
尻手からの列車も、川崎からの列車も、それぞれの本線からポイントを渡ってこれらの共通の仕分線へと進入・合流できる配線構造になっていました。
3. 浜川崎側の出口での一本化小田操車場の構内で仕分けや解結を終えた貨車、あるいはそのまま通過する列車は、操車場の南東側(浜川崎駅側)の出口で再び集約されます。
ここでもポイントによって本線へと合流し、最終的には浜川崎駅へ向けて線路が絞り込まれていく配線になっていました。
現在の姿へのつながり(小田操車場の名残)
旧・川崎駅からの単線跡や操車場の側線跡を利用して線路が敷き直され、それまで完全な単線で列車交換ができなかった南武支線に、2面2線が作られたのです。
現在、川崎新町駅のホームに立つと、無人駅(2022年より)にしては不自然なほど上下ホームの間や周囲の敷地が広く感じられます。
南部支線との貨車は、新鶴見操車場から、それとも南武線で府中本町方面から
南武支線を経由して小田操車場へと入る貨車は、その輸送目的によって、府中本町(立川・奥多摩)方面から南武線本線を直通する経路と、新鶴見操車場から尻手短絡線を経由する経路の両方が存在し、使い分けられていました。
1. 府中本町方面から直通した列車:石灰石
新鶴見操車場には立ち寄らず、尻手駅から南武支線へと進入して小田操車場・浜川崎方面(浅野セメントや日本鋼管)へ向かいました。
2. 新鶴見操車場からやってきた列車:一般貨物・臨海部発着の全国貨物
主な貨物:石炭、石油、工業製品などの一般貨物(車扱貨物)
新鶴見を出発後、尻手短絡線を通って尻手駅の構内で南武支線へと転線し、小田操車場へと向かいました。また、臨海部の各工場で作られた製品を全国へ発送する上り貨物列車も、この逆の経路で一度新鶴見操車場へと送られていました。
川崎駅の、東芝とグリコへの専用線は、南武線と繋がっていた。しかし川崎駅の鶴見側に、南武線から京浜東北線と、京浜東北線から東海道本線旅客線への片渡があった。これを使って、南武線と東海道本線との入れ換えはあったか
川崎駅の鶴見側(南側)には「南武線〜京浜東北線〜東海道本線旅客線」の渡り線が存在していましたが、定期的な入換作業は行われていませんでした。
この渡り線は、貨物の入換ではなく、主に「南武線の新車の搬入(配給輸送)」や「回送列車・検修車両」を移動させるための臨時の経路です。
新車の台車履き替えや甲種輸送:南武線に新しい電車(国鉄の101系や103系など)を導入する際、品川や大井工場、あるいは製造メーカーから東海道本線を経由して川崎駅まで牽引されてきました。
その車両を南武線側へ取り込むために、深夜などの列車の運行がない時間帯を見計らって、この渡り線を使って転線させました。
旅客転線の非常用・保守用:国鉄時代、回送列車や事業用車(線路の検査車など)が路線をまたぐ際の経路としても確保されていました。</span><span class="daidai"><br>
東高島駅だったか、2000年頃まで海からの水路にクレーンの機械が残っていたが、いつまで使ってゐたか
東高島駅の構内から海側の運河へと突き出すように遺されていた、水陸連絡用のクレーン(テルハ型クレーン・門型クレーン)の機械ですね。実際に使われていたのは1980年代前半(1982年〜1984年頃)までです。
運河は陸側にあった。
その後は2000年代初頭に解体・撤去されるまで、使われないまま約20年間にわたって「遺構」として運河の上に佇んでいました。当時の役割と、使われなくなった経緯は以下の通りです。
1. クレーンの役割:水陸連絡駅の象徴
東高島駅は、四方とも運河に囲まれた、全国的にも極めて珍しい構造の貨物駅でした。その最大の目的は、船(はしけ)と貨車の両方向荷物載せ替えです。運河に面したレールの上を移動するクレーンを使い、船から引き揚げた木材や工業製品、化学薬品などを、駅構内の貨車(ワム車やトラ車など)へ積み込んで全国へ送り出していました。
2. いつまで使われていたか:1980年代前半、国鉄の車扱貨物の縮小です。1984年2月のダイヤ改正(59・2改正)で、東高島駅の水陸連絡貨物の取り扱いも事実上完全に終了しました。
3. なぜ2000年頃まで残っていたのか
クレーンはそのまま放置されていました。東高島駅は、国鉄分割民営化(1987年)でJR貨物に引き継がれましたが、貨物列車の発着自体がほとんどなくなり(臨時取扱駅化)、駅構内の設備にほとんど手が付けられなかったためです。
4. 2000年代の再開発
現在、東高島駅の北側地区(星野町・千若町エリア)は大規模な再開発の真っ只中にあり、運河の一部も埋め立てられ、高層マンションや医療施設などの建設が進められています。2000年頃のあの運河沿いは、まだ東神奈川駅からの古いコンクリート橋脚(1959年廃止)なども多く残りました。
高島駅と、表高島駅の、役割分担は
地区全体の貨車を仕分けと、埠頭の突端で船と荷役を行う駅でした。
1.高島駅は、3階建ての立派な駅舎を構え、新鶴見や全国からやってきた貨物列車を一度ここに受け入れ、ハンプ等を使って、周辺の各臨港駅(東横浜・横浜港・山下埠頭・表高島など)や、三菱重工業横浜造船所などの巨大専用線ごとに行き先を細かく仕分ける「総振り分け」を担っていました。
本線北側には一般のコンテナホームや有蓋車ホームもあり、独自の陸上貨物も捌いていました。
2. 表高島駅は1934年(昭和9年)に高島埠頭の完成に合わせて、高島駅から1.3kmほど海側に突き出た突端に開設されました。
ここは駅舎がなく、高島駅が管理しました。
埠頭専用であった表高島駅は1982年(昭和57年)11月に一足早く廃止となりました。その後、高島駅も、1995年(平成7年)に廃止されました。
高島駅の貨物扱い
1. 本線北側に広がる、コンテナホームと有蓋車ホーム
構内北側(現在の高島水際線公園の近く)には、2面の貨物ホームと3本の荷役線が敷かれていました。
コンテナ貨物の取扱(1965年〜1979年):1965年にコンテナ取扱駅になり、当時はまだ黎明期・発展期だった鉄道コンテナの巨大な拠点となりました。
車扱貨物・一般有蓋車ホーム:ワム車をはじめとする一般貨車からの荷役もこのホームで行われ、横浜の市街地や陸上ルートから持ち込まれる一般の物流(特に行政や商業に直結する物資)の受け皿になっていました。
2. 駅北側での「帷子川(かたびらがわ)からの荷揚作業」
高島駅は、駅の北側を流れる帷子川の運河にも面していました。表高島駅が「高島埠頭の外洋船・艀」を専門としていたのに対し、高島駅自身も帷子川の運河を行き交う川船や小型の艀から、クレーン等を用いて直接荷を揚げ、貨車へ積み替える荷役作業を1970年代まで活発に行っていました。
3. 三菱重工業横浜造船所への巨大専用線
駅の南側(現在の横浜みなとみらい、横浜ランドマークタワー周辺)に広がっていた三菱重工横浜造船所へ直結する専用線の管理・運行も高島駅の重要部分でした。
「横浜羽沢駅」への集約と終焉への流れ
1979年(昭和54年):横浜羽沢駅が開業したことに伴い、高島駅のコンテナ貨物の取扱機能はすべて横浜羽沢駅へ移管・集約され、車扱貨物のみに縮小されました。
横浜港駅との役割分担は
横浜港駅(よこはまみなとえき)は、新港埠頭に特化し、貿易貨物を担う現場駅でした。
1. 現在の横浜赤レンガ倉庫(新港埠頭2号上屋)のすぐ横に位置し、生糸や、海外から輸入された生ゴム、精密機械などの貿易貨物を専門に扱っていました。
華やかな旅客列車の発着:貨物駅でありながら、サンフランシスコ航路などの国際客船(氷川丸など)に接続する列車が、東京駅から乗り入れていました。
山下埠頭駅の玄関:後に山下埠頭が完成すると、高島駅からやってくる貨車をさらに奥の山下埠頭駅(1986年廃止)へと中継する役割も果たしました。
2. 横浜港駅の構内は、新港埠頭の狭い敷地に作られました。そのため、全国から集まった横浜港駅行き(海外輸出用)の貨車は、手前の高島駅で上屋別に並び替えられてから、横浜港駅へと送り込まれました。
京浜の工業地帯中心地 円高により燃料と材料製品安くなり 貨物激減その次に鉄道までも衰へて 人類までも滅亡手前
反歌
鉄道は人類歴史縮図にていよいよ近し西洋文明(終)
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